第166話『愛情オーバーフロー』

「悪い、結構遅くなっちゃったな」

「いえ、私も楽しかったです」


 厳太郎が出してくれた車のおかげもあり、帰りは行きに比べて時間もかからずスムーズであったが、途中に優人の希望で寄り道したりファミレスで夕食を済ませたりすれば、アパートの到着する頃にはすっかり夜が更けていた。

 真夏なので肌寒くはないし、むしろ日差しがない分過ごしやすい時間帯であるものの、夜遅くまで連れ回してしまったかもという事実に少しだけ気を揉む。


 とはいえ、雛の屈託のない笑顔を見るかぎりそれも杞憂らしい。本当に彼女の笑顔は心が洗われるようだ。

 雛と手を繋ぎ合ったままアパートの階段を上り、お互いの部屋の前へ。


「それでは優人さん、おやすみなさい」

「……おやすみ」


 未だ夏休み中で明日も休みとはいえ、夜ふかしは身体によろしくない。だからは今夜はこれで別れるつもり……だったはずなのに、口にした挨拶とは裏腹に優人の手は固く握られたまま、雛の手を離さそうとはしなかった。


「優人さん?」

「その、なんだ……まだ離れたくないって言ったらどうする?」


 どうしたのかと小首を傾げる雛の視線に耐え切れず、ややあって目を泳がせながら絞り出した言葉は、いつか雛に言われたことの繰り返しだ。

 きょとんと一瞬だけ固まった雛も同じ記憶に思い至ったらしく、こらえ切れないやら微笑ましいやらと言わんばかりに小さく吹き出す。


「ふふ、以前とは立場が逆で今夜は優人さんが甘えん坊なんですね。いいですよ、お泊まりしましょうか?」


 我ながら女々しい頼み方をした自覚はあるというのに、むしろ嬉しそうにはにかんで快諾してくれる雛。そんな優しい彼女から望んだ答えを得られたはずなのに、優人の表情は今一つ固さが拭えない。


「…………」

「えっと、優人さん? お泊まり――」

「そうして欲しいのはやまやまなんだけど……そうなった場合、それだけじゃ済まなくなりそうで……」

「え?」


 ああ、なんて情けない。

 自分が抑えられないから切り出そうとしてるだけのくせに、この大事な土壇場でこうもしどろもどろになってしまう。安奈が言っていた通り不器用な自分がいっそ憎らしく感じるほどだ。


 でも、今さら後戻りできそうにもない。

 だから優人は男として覚悟を決めると、雛と正面から向かい合い、緊張で渇く唇を湿らせ、必死に舌を回す。


「――俺、雛が欲しい」

「……………………はえ?」


 ぱちくりと金糸雀色の瞳を大きな丸にし、ぽかんと開いた口から間の抜けた音を漏らす雛。たっぷり数秒はその状態のまま静止していたかと思えば、やがて首元から這い上がってきた赤みが瞬く間に面積を広げ、夜でもはっきりと分かるほどに顔全体が鮮やかな薔薇色に染まる。


 ぱくぱく、あわあわ。

 どうにかこうにか口を動かそうとしているのは分かるが、内容が衝撃的すぎて言葉が出てこないらしい。

 分かってる。それだけのことを優人は伝えたのだ。


「ほ、ほ、ほほ欲しいって……それはっ、あの……!」

「だから、っ……もっと先へ進みたいというか……男女の仲を深めたいというか……つまり、エ――」

「い、いいですいいですそれ以上は言わなくていいですっ! 意味は分かりますから……っ!」


 顔を真っ赤にした雛の制止はもはや叫びに近く、夜のアパートの廊下という時と場所に気付き雛は慌てて口に手を当てて押し黙る。

 幸い近所迷惑とまではならなかったのか、他の部屋から誰かが苦情を言いに出てくる様子もなく、二人の間は急激に静まりかえった。


 すごく、いたたまれない。

 だがこれは自分が招いた状況だし、優人だって自分が告げた事の意味、その重大さも承知はしているつもりだ。


「……雛」


 答えを聞かせてほしい。囁くように名前を呼ぶと、押し黙ったきり俯いていた雛は羞恥で濡れた金糸雀色の瞳で上目遣いに優人を見上げた。火照りを隠すかのように口元に手を添えながら、彼女はおずおずと口を開く。


「……あの、どうして急に、そのようなことを」

「理由か……?」

「はい……い、いえ、男の人のそういった欲に理由を求めるのも、変な話だとは思いますけど……本能みたいなものでしょうし……」

「まあ……」


 本能、と言われたら確かにそうなのだろう。

 人間の三大欲求として数えられるぐらいには普遍的なものだし、こと男女関係においては抱いて当然の感情だとも思う。

 好きな相手だから触れたいし、好きな相手だから知りたいし、好きな相手だから深いところで身も心も繋がりたい。


 ――そう、好きな相手だから。


 雛に問われたことで、ようやく優人は自分の気持ちに抑えが効かなくなった理由に見当がついた気がした。


「言葉にするとちょっと難しいんだけど……たぶん、雛のことがもっと好きになったからだと思う」

「もっと、ですか?」


 聞き返す雛に、優人は「ああ」とはっきり頷いてみせる。


「今までだって、これ以上はないってぐらい好きなつもりだったけどさ……昨日雛に慰められて、本当に雛は……俺にとってかけがえのない存在なんだなって思ったんだ。ずっと一緒にいてほしいって、心の底から思えるぐらい」


 ずっと一緒にいてほしいなんて言葉にするだけなら簡単だし、雛に対して優人は何度も思った。けれどそれは、例えるなら幼稚園児たちが『おとなになったらっこんしようね』と約束するのと本質的には変わらなかったのかもしれない。

 ただ幼い恋心に浮かれた、何の覚悟もなく唱えるだけの曖昧な口約束。


 でも今は違う。

 これから先、雛と共に未来を歩くためならどんな困難が待ち受けていようとも進む。声を大にして他人に、何より雛に、正面を切ってそう誓えるだけの覚悟が優人の胸にはある。

 その固く芽生えた想いが、とうとう理性という心の檻を内側から壊しにかかっているのだ。


「改めて言うよ。俺は雛のことが好きだ。これから先もずっと俺の隣にいてほしい。だから、雛が欲しい」


 まるで優人の背中を押すように吹いた夜風に乗せ、一言一句すらもたがえることなく雛に伝える。

 雛は優人の宣言に大きく目を見開き、再び顔を俯けた。

 彼女からの答えをじっと待つ間、無言の時間が続く。


 一秒、二秒、三秒。


「…………」


 四、五、六、七……。


「…………」


 ……あれ、これ、ひょっとしてやらかしたのでは?

 急激な不安に襲われる優人の背中をじわりと嫌な汗が伝う。


「も、もちろん無理になんて言わないからなっ!? いきなりだなーとは自分でも思うし……ほら、あの、女の子には気分とか、良い日悪い日とかあるだろうしっ! 嫌なら嫌で全然、もう全っ然断ってくれていいから……ッ!」


 覚悟を決めた自分はどこへ行ったのやら、優人は言い訳のように必死にまくし立てる。

 結局どんな想いの丈を並べたところで男の欲求を満たしたいことには変わりなく、いざそうなった場合、女性側の方が負担が大きいことは明らかだ。躊躇するのは当然のこと、少なくともこれで拒否されたとしても雛への愛情が薄れることは万に一つもない。

 第一、こんなムードもへったくれもない誘い方自体が失敗だったかもしれない。


 ともすれば直前の雛以上に慌てふためいてしまう中、優人の上着の袖をきゅっと摘む感触が。


「……優人さん」


 溢れんばかりの羞恥で頬を染める雛は濡れた瞳の上、長い睫毛まつげを震わせる。


「シャワーだけは、浴びさせてくださいね……?」


 恥じらいたっぷりの声が優人の鼓膜を揺さぶった。

 ……つまり、それはOKということで?

 それすらも判断できないほど回ってくれない頭の一方で、優人の口は勝手に「ハイ」と上擦った声を返すのだった。








 シャワーは雛が先で、優人が後になった。

 ほとんど逃げるようにして浴室へと引っ込んだ雛がさすがに心配になったほどだが、優人もたいがい人のことは言えない。ばくばくと早すぎる鼓動を刻む心臓が全身へと血液を送るものだから、風邪でも引いたように身体が熱い。

 当然ただ待つだけでは落ち着くわけもなく、ベッドのシーツなどを洗濯済みの清潔なものに取り替えた後は何の意味もなく立ったり座ったりを繰り返した。


 やがてシャワーを終えた雛がリビングに戻ってきたが、そうなったら今度は優人が浴室へ駆け込む番なだけ。事を急いでいるというよりは、単純にお互いの顔を見ていられなかった。

 とはいえいつまでも泡を食ってはいられない。自ら切り出したからなのはもちろんのこと、男としてはリードしたいという見栄もある。精神的なものも含めて全ての準備を整えると、優人は一度大きく深呼吸してから脱衣所を出た。


 閉じられているリビングへの扉。りガラス越しの向こう側がぼんやりと薄暗いのは、雛が照明の光量を落としたからだろう。

 つまり雛も、準備を終えている。優人がシャワーを終えたことは音で分かるのだからそう捉えていいはずだ。


 はやる気持ちを抑え、リビングの扉をゆっくりと開く。

 瞬間、金糸雀色の瞳と視線が交わった。


「……お待たせ」

「…………」


 雛の返事はない。小さくこくりと頷いただけで、ベッドの縁に座る彼女はそれきり目を伏せてしまった。

 帰ってくる時は大して気にも留めなかったけれど、今夜は一段と月が綺麗らしい。薄暗い室内には鮮やかな月明かりが差し込み、その光が最愛の少女の姿を照らす。


 雛の肢体を包むのは淡いブルーのシルクパジャマ。すでに何度か見ているはずなのに、女性らしい身体の凹凸が作り出す服のしわや、月明かりの陰影は、いっそぞっとするほどの美しさを生み出していた。

 触れるどころか、近付くことすら躊躇ってしまうほどの光景だが……優人はまず一歩を踏み出す。着実に刻む歩みは優人をあっけなく雛の元へと辿り着かせ、なるべく音を立てずに優人は雛の隣に腰を下ろした。


 拳二つ分の距離はいつもに比べたら遠い。でも、雛の体温と甘い色香は今までで一番濃く感じる。ゆっくりと顔を向けて雛を視界に収めれば、いよいよ優人の五感全てが彼女に奪われるようだった。


「雛」


 その名を大事に唱え、真っ赤に染まった耳を露わにするように優しく髪を梳いてあげると、今にも雫がこぼれそうなぐらいふやけた瞳が優人を見つめる。宝石のように煌めく輝きに吸い込まれて、そっと雛と唇を重ねた。

 ん、とくぐもった声が密着した唇から伝わる。続いて身体も寄せると、今の雛がよく分かった。


 震えてる。微かだけど確かに。

 息遣いも、声も、身体も、きっとその奥に隠した心も。


(当たり前だよな……)


 決して嫌がられてるわけではないだろうけど、不安なものは不安で、それでも雛は優人の望みを叶えようとしてくれてる。

 身を以てそれを思い知った瞬間、優人の心はむしろ落ち着いた。初めてに対する緊張は雛と同じでも、それを上回るぐらいに彼女への感謝が溢れる。


 優しくしたい。

 素敵な夜にしてあげたい。

 優人を受け入れた選択が間違いではなかったのだと、全身全霊で証明したい。


「雛、大丈夫だから」


 重ねるだけのキスを終え、頭に添えた手で雛を抱き締める。


「優しくするから」

「……はい、ありがとうございます」


 ぽんぽん、と最大限安心させるように背中を叩くと、優人の胸に顔をうずめていた雛はもぞりと顎を持ち上げる。

 優人の腕の中、浮かべる表情は幸福に彩られた微笑み。恥ずかしさとは少し違った色で頬を染め、雛は甘い吐息で優人の首をくすぐった。


「優人さん」

「ん?」

「優しく、愛し合いましょうね?」

「うん」


 愛しじゃない。愛し合いたい・・・・

 優人の抱く感情は一方通行ではないと、彼女はそう言ってくれた。


 思いやり深い彼女に優人は柔らかく笑いかけると、今度はもっと深く、想いをこめた優しいキスで雛の唇を濡らす。

 その口づけが、愛し合うという行為の始まりを告げた――。





≪いつもより長い後書き≫

 勝ったッ! 第3章完!


 いや何と戦ってんねんといったところで第3章終了となります。ここまで読んで頂いたことへの感謝と同時にお知らせが大きく分けて二つございます。


①物語の進み具合から分かる通りとうとう大人の階段を上ることになった二人なのですが、実を言うと当作品のR18版を『ノクターンノベルズ』という小説サイトにひっそり投稿しておりまして、そちらでこの第166話の直後を描く予定です。

 次の第4章開始と同時に更新する予定であり、それに際して本編の次の更新がいつもより遅れます。なるべく早くにとは思うので、申し訳ありませんがよろしくお願いします。


 18禁サイトなのでURLなどのリンクは載せませんが、もし興味がありましたら『ノクターンノベルズ』で作者名なり作品名なりで検索して頂ければ幸いです。

 補足するとあくまで18禁該当箇所を抜き出しただけであり、読まないと本編が分からなくなるということはありません。18歳未満の方、また性的表現に嫌悪のある方は閲覧を控えて頂くようよろしくお願いします。


②この度、当作品は現在開催中の『第8回カクヨムWeb小説コンテスト』の読者選考を無事に通過しました。

 むしろここからが本格的な選考の始まりであるかもしれませんが、こうしてスタートラインに立つことができたのは一重に読者の方々からの評価の賜物であり、この場で改めての感謝を申し上げます。

 応援ありがとうございました!


 それでは最後となりますが、よろしければ励みになりますので下記の☆☆☆評価やレビュー、応援コメント等、どうぞよろしくお願いします。

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