第165話『陽の当たる場所へ』
花火大会から一夜明けた翌日、その午後三時過ぎ。
予定通りの二泊三日を終えた優人と雛は、帰り支度を済ませた状態で天見家の玄関にいた。
目の前には見送りの安奈。そしてありがたいことに、電車の乗り換えに都合のいい駅までは厳太郎が車を出してくれるとのことなので、彼は駐車場でその準備中だ。
「別に慌ただしいわけでもなかったのに、いざ帰るってなるとあっという間に感じるわねえ」
別れを惜しんでか、腕を組んだ安奈はほんのり寂しげに眉尻を下げる。
「二人とも今回はありがとね。おかげでスムーズにこっちでの生活に移れそうだわ」
「ま、旅費の援助っていうバイト代もあったしな。それで、結局日本にはいつまでいるんだ?」
「そうねえ……仕事の進み具合で前後するからなんとも言えないけど、まあしばらくはいるわ。確かあなたたちの文化祭って十月よね? 少なくともそれを見に行くぐらいはできそうよ」
「本当ですか? なら、またその頃に安奈さんたちに会えるのを楽しみにしてますね」
「ええ、私も楽しみにしてるわ。それと雛ちゃん」
穏やかな笑顔に少しだけ真剣な色を足し、安奈は雛へと身体の正面を向ける。
「これからも息子のことをよろしくお願いします。色々と不器用な面もあると思うけど、末永く一緒にいてもらえると嬉しいわ」
「はい、もちろんです!」
「せめて本人のいないところでやってくれよ……」
どんな顔をして聞いていればいいのか分からず、優人は悪態にすらならない呟きを苦し紛れにこぼすだけで限界だった。
わざわざ居住まいを正してお願いする安奈もだが、両手で握り拳を作ってノータイムの返事をした雛も雛である。
親として、恋人として。二人が優人へ向ける愛情は似て非なるものだけれど、大事にされているという意味では同じで、だからこそ余計にむず痒い。
身体の内で
「そういや雛、あれ」
「あ、そうでしたね」
三十六計逃げるに如かず。
話題の転換には成功したらしく、優人に促された雛は荷物の中からある物を取り出した。
「安奈さん、良かったらこれどうぞ」
「あら……写真立て? どうしたのこれ?」
「昨日、射的の屋台でゲットしたんです。お土産というほどでもありませんが、良かったらどうかなと」
「へえ、なかなかお洒落でいいじゃない。貰えるならありがたく貰うけど本当にいいの?」
「俺らはもっぱらデータで保管なんだよ」
「あらま、ジェネレーションギャップってものかしら。
優人の補足に安奈は頬に手を当て、はあ、と物憂げなため息をつく。
「安奈さんは十分お綺麗だと思いますけど……」
「あはは、ありがとう。雛ちゃんみたいな子から太鼓判を押してもらえるなら自信が持てるわ。これは大事に、優人の写真を飾るのにでも使わせてもらうわね」
「は、俺の? なんで?」
雛が渡した写真立てをどう使おうと安奈の自由ではあるのだが、よりにもよって当然のように自分の写真を飾ると宣言されてしまうと、優人は声を上げずにはいられなかった。
「大事な一人息子が親元を離れてるっていうのは意外と寂しいものなのよ。だから少しでも顔が見えるようにしておきたいってわけ」
「……頼むから、あんま変なのは飾らないでくれよ」
「どうしましょうねえ。それとも今ならリクエストでも受け付けてあげましょうか?」
「リクエストって」
自ら自分のこの写真を飾ってくれなど、捉え方によってはただのナルシスト発言だ。だから安奈の発言には苦笑を返すだけで受け流そうと思ったのだが……ふと、頭を掠めるものがあった。
「じゃあ――」
候補として浮かんだ一枚の写真を告げる。
すると安奈は、いつも
「優人、それ……」
「アルバムの最後の方にあるだろ? 一昨日偶然見つけたよ」
「……ええ、そうだけど、でも……」
「いいんだ。もう大丈夫だから」
安奈にはそうはっきりと言って笑い、それから隣の雛を一瞥する。
母と同じように心配そうな様子でこちらを見上げていた彼女だが、すぐに優人の浮かべる表情に気付いて、安心したように唇を弛ませた。
こんな風に清々しい気持ちでいられるのも、他ならぬ雛のおかげだ。
雛への感謝を笑顔という形で示してから「母さん」と安奈に向き直る。
「あと進路についてなんだけどさ……また今度、電話で色々と相談してもいいかな? 具体的にどうこう決まってるわけじゃないんだけど」
「――ええ、もちろんよ。好きなだけ親を頼りなさいな」
「ありがとう」
安奈は多くを訊くことはしなかった。ただ穏やかに目元を緩ませ、優人の言葉には胸を張って頷いてくれる。
改めて自分は両親に恵まれたことを噛み締めていると、外の方から車のエンジン音が聞こえてきた。
「父さんの準備もできたみたいだし行くか」
「はい。それでは安奈さん、三日間お世話になりました」
「こちらこそ、またね雛ちゃん。いってらっしゃい優人」
「いってきます」
母から送り出され、優人は実家の玄関をくぐる。
すぐそばにいる雛と、固く手を繋ぎ合わせながら。
「ただいま。優人たちは無事に帰っていったぞ」
「そう、厳太郎さんもお疲れ様」
窓からリビングへと差し込む光に少しずつ柔らかなオレンジ色が混ざる中、息子たちを送り届けてくれた夫の報告に安奈は振り返る。
一言伝えてから洗面所へと向かおうとした厳太郎は、リビングのソファに座る安奈の前に置かれた写真立てを捉え、その歩みを止めた。
「安奈、それ」
「ふふ、結構いいでしょこの写真立て。雛ちゃんから貰ったの」
「そうではない。その写真は……」
「ええ、あの時のものよ。……優人が言ってたわ、もう大丈夫だって。進路についても今度相談させてほしいですって」
「……そうか」
厳太郎が安奈の隣へと歩み寄り、テーブルに置いた写真立てを二人で眺める。
まるで
優人にどんな心境の変化があったのか。詳しくは分からないけれど、きっと雛の存在が何かしらの支えになってくれたのだと思う。
『もう大丈夫』と言った後、優人が雛へと送った視線――それを見逃すほど親は甘くないのだ。
「優人は同じパティシエを目指すのだろうか」
「さあ、どうかしらね」
投げかけられた問いに安奈は笑って肩を竦める。
それはまだ分からない。もちろん息子が同じ道に進みたいと言うのなら、親として可能なかぎりの手助けはしてあげたいし、一人の職人としても業界の門を叩きたいというのは大歓迎である。
けれど、別に優人を縛りたいわけでもない。
安奈の職業だってあくまで到達点の一つでしかなく、道筋やたどり着く場所は他にいくらでもある。まったく無関係の職に就きたいのならそれもまた良し。今はちゃんと選択肢として優人の中にあって、他のも含めて取捨選択を重ね、その上で出した答えなら何一つ文句などない。
大事なのは自分で考え選ぶこと、それに尽きるのだから。
「さてと! なんだか急にやる気が出てきたから、何か甘いものでも作ろうかしら」
「おいおい、今からだと晩飯に差し支えないか?」
「あらそう? 厳太郎さんの好きなマドレーヌにでもしようと思ったのに」
「……頼む」
「ふふふ、任せてちょうだいな」
勢いよく立ち上がった安奈がキッチンへと向かい、やれやれと満更でもなさそうに首を振る厳太郎が後に続く。
テーブルに飾られた写真立て、収められているのはある日の思い出。
夕暮れの光が優しく照らし出すのは、初めて自分の力で作ったクッキーを手にした少年の笑顔だった。
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