第164話『この世界でたった一つの』

「優人さんが私に初めて食べさせてくれたのも、そういえばクッキーでしたよね」


 背後から優人を優しく包む雛の体温。雛の胸に抱かれているせいか、トクン、トクンと緩やかなペースを刻む彼女の心音を感じる。

 有無を言わせぬといった圧があるわけでもないのに、いきなりの雛の抱擁には不思議と口を挟む気にもなれなくて、彼女から投げかけられた言葉に優人はただ漫然と頷きを返した。


「この際だから白状しちゃいますけど、実はあのクッキーその場で全部食べちゃったんですよ」

「そうだったのか?」

「はい。お腹が空いていたのもありますけど……何より、とても美味しかったですから」


 美味しかった。その言葉が優人の胸に確かな熱を与える。

 振り返ってみれば、あれは本当に気まぐれだった。ある程度親しい相手ならいざ知らず、ほぼ初対面の相手に自分の作ったものを渡すなんて。


 もしもあの時、クッキーを渡さなかったらどうなっただろう。それ以前に部活を終えて帰ろうとした時間が少しでも前後して、荷物持ちの最中だった雛とすれ違わなかったら、今のこの関係はなかったかもしれない。


 あの出来事から雛との関係が始まったのだと思うと、無性に感慨深い気持ちになってくる。


「二つ目はホットミルクですね。今ではすっかりお気に入り、何かにつけてお世話になってます。レシピは教わったので自分でも作りますけど、やっぱり優人さんに作ってもらった方が美味しいんですよね」


 雛が家出した日のことだ。途方に暮れていた雛を優人が住むアパートへと連れて行き、疲れていた彼女を落ち着かせるためにれてあげた。

 レシピは安奈から伝授されたもので、それを雛にもそっくりそのまま教えている。

 丁寧な彼女ならその教えを完璧に再現できているだろうに、優人が作るとより幸せそうに頬を緩めて飲んでくれるのが、実は毎回嬉しい。


「それから今度はプリン、上級生の人からの告白を断って嫌なことを言われた私を気遣って、家庭科室でご馳走してくれました」

「……あれは味見だって言ったろ」

「何が味見ですか、わざわざ色々とトッピングまでしておいて」


 つん、と細い人差し指で頬をくすぐられる。

 言い訳としては苦しかったし、雛にも筒抜けだったのは分かっているが、改めて蒸し返されると気恥ずかしい。


「二学期の期末テスト後に作ってくれたのがアップルパイでしたね。あれは特に嬉しかったなあ……。テストの順位は落としちゃったのに、それでも私に『頑張った、お疲れ』って言ってくれたみたいで……最高のご褒美でした」

「そのお礼に雛から初めて夕食に誘われたんだったよな。今じゃすっかり雛に作ってもらうのが当たり前になってるけど」

「ふふ、お互いに胃袋を掴んじゃいましたねー」


 楽しそうに雛が笑う。直接顔をみなくとも、彼女の満面の笑顔がありありと頭に浮かぶようだった。

 その後も雛の思い出語りは続く。


 テスト勉強中のパウンドケーキは、勉強で疲れた頭によく効いた。


 ホワイトデーのパンケーキは、期待以上のふわふわ加減で食感でも楽しめた。


 雛が学年一位に返り咲いたテスト後のイタリアンプリンは、勝利の味がした。


 誕生日のバースデーケーキは、今まで見たどんなケーキよりも輝いて見えた。


 一つ一つの思い出を、雛はゆっくりと、けれど一度も滞ることもなく語り続ける。それこそまるで昨日のことのように、ただの一度たりとも。

 それは彼女の優れた記憶力が成せる技か、もしくは。


「よくそんな……細かく覚えていられるな」

「ええ、それだけ大切なことばかりですから」


 雛の言うことは紛れもない本心だ。溢れんばかりの感情を乗せた優しい声音が、優人にそう確信させる。


「優人さんはさっきこう言いましたね? 自分は安奈さんみたいにはなれないと」

「……うん」


 雛の体温と柔らかさを感じながら、素直に頷く。


「確かに簡単になれるものではないと思います。プロとして成功を収めるというのは相応の努力が必要なことでしょうし、きっと時には運やタイミングも絡んでくる。頑張ればきっとなれるなんてものでもないでしょうから、確実なことなんて私には言えません」


 ――でも、言えることだってあります。


 そう続いた言葉の後半にとうとう始まった花火の一発目の発射音が重なった。

 花火が上る独特の音が遠くの空から聴こえる中、優人の頬に小さな両手が添えられて、いざなうように顔を上に向けられる。


 ドン、と大きく響く音。

 視界の外で広がる色鮮やかな光が、優人を見下ろす彼女の顔を照らす。


 いつもそばにいてくれる、愛しい、その笑顔。


「私がこうして笑っていられるのは、貴方あなたがかけてくれた、貴方だからかけることのできた――この世界でたった一つの魔法のおかげなんですよ」


 花火の残響が耳を震わせる中、けれど欠片もこぼれることなく届いた彼女の声が、優人の心の奥底に沁みる。

 渇いた大地に降る雨がそうであるように、雨粒ことばの一つ一つが降ってはじわりと吸い込まれ、恵みを与えてくれる。


 やがて幾多もの雨に打たれた大地はふやけ、吸い込み切れない分は別の形となって溢れ出す。


(――大馬鹿だ、俺は)


 一体、何を卑屈になっていたのだろう。

 優人の持つ力を、優人以上に信じて証明してくれる人が、こんなにもすぐ近くにいてくれる。

 なら、もうそれで十分じゃないか。


「花火、始まりましたね」


 雛が空を見上げ、優人の顔の向きも前へと戻される。

 すでに空には輪郭のぼやけた・・・・・・・光の花が何枚も咲いている。咲いては消え、咲いては消えを繰り返す刹那的な光景は見る者すべてに幻想的な美しさを見せているに違いない。


「とても綺麗です」


 ああ……きっとそうなんだろう。そうだと思う。

 でも、ダメだ、うまく見えない。


 だってその視界は、どうしようもなく温かいものでひどく、ひどく滲んでいたのだから。

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