第161話『教えてください』

 考えてみれば当たり前の話だった。

 ここは地元で、置いてきた自分の過去がある場所で、人が多く集まる祭りなのだから。

 昔の知り合いと出会う偶然の一つや二つ、起きて当然だ。


「久しぶりだな」


 それ故か、もしくはすぐ後ろに控える雛の存在を思い出せたおかげなのか、そんな何気ない挨拶を喉の奥から吐き出すのは思ったよりも簡単だった。

 そう、今は雛と楽しい祭りを堪能している真っ最中で、しかもこれから二人きりで綺麗な花火を見ようとしているのだ。この満ち足りた気分を台無しになどしたくない。


 だから、水を差したくない。頼むから差さないでくれ。

 ――けれど優人の願いは、どうにも届きそうにはなかった。


「久し、ぶり……え、天見、なんでこっちに。高校からは地元を出たって……」

「夏休みに帰省するのがそんなにおかしいか? 両親も基本海外だったけど、今は日本に帰ってきてるし」

「あ、そっか……だよな」


 渋谷しぶやは目に見えて狼狽うろたえている。自分の思い通りにいってくれない状況が、優人の口調を棘のあるものへと変えていく。そんな自分に内心で歯噛みをした優人は、およそ数年ぶりの知り合いの顔を見据えた。


 一応親しかったと言えたのは小学校の途中までだったし、中学の頃にクラスが同じになったことはあっても、すっかり疎遠になっていたからほとんど話しもしなかった。

 こうして顔を向かい合わせてみると、当時に比べたら顔付きは大人びて体格もがっしりと変化している。なのに彼だと、渋谷だとすぐにピンときたのは、それだけ自分にとって色濃く残った記憶に関わっているからだろう。


「お前は何してるんだ?」


 このまま黙っていても話は進んでくれない。声音を高めに――それでなんとかいつも通りだったが――修正して世間話程度に尋ねると、渋谷は少しだけ強ばった表情を和らげた。


「……ひ、人手が足りないから手伝いだよ。これ、じいちゃんがやってる屋台だし」

「へえ。今日は人も多いし大変だろ」

「まあな。でもバイト代はしっかり出してくれるし、これはこれで結構楽しいよ」

「そっか。じゃあ二人分頼む」

「毎度」


 ちょうどの代金をカウンターに置くと、渋谷は作り置きを保管してある中から二本のチョコバナナを抜き取る。

 艶のあるチョコのコーティングと、満遍なく散りばめられたカラースプレー。見た目からして美味しそうなそれを、けれど渋谷は優人に渡す直前、何かを躊躇うように手をわずかに引っ込める。


「渋谷?」

「……えっと、天見はいいのか?」

「何が?」

「だってこれ、俺が、作ったやつだし。そりゃ、チョコバナナなんて作ったって言えるほど大層なもんじゃないけど……一応そうだから」

「だったらなんだよ。別に毒が入ってるわけでもあるまいし」

「……っ」


 ――くそっ。昔の出来事が頭をぎって、つい余計なことを口走った。

 だが、後悔したところで一度吐いた言葉を飲み込めるわけもない。


「もらうぞ?」

「…………」


 渋谷からの返事は無い。けれどチョコバナナの持ち手がこちらへと傾けられたので、優人は渋谷の手からそれを抜き取る。


 ――ごめん。


 瞬間、俯いた渋谷がそう呟いた気がした。

 声を発したわけではないだろう。出ていたとしても、きっと蚊の鳴くようなか細い声で、祭りの喧噪に紛れて優人の耳には届かない。

 それでも、確かにそう謝ったように思えた。


 本来なら相手に届くはずもない、小さな懺悔ざんげ。届かないものに応える道理も義理もない。

 だから優人は何も言わずに振り返り、いつの間にか気を遣って二、三歩離れた位置にいてくれたらしい雛の下へ向かおうとして……直前できびすを返す。


「渋谷、チョコバナナもう一本、俺の奢りでお前に」

「は、なんで……」

「客商売がそんな顔してちゃダメだろ。甘いもんでも食べて少しは元気出せ。……それと、もう、あんま気にするな」


 何を、はわざわざ口にせずとも彼に伝わるだろう。

 その証拠に弾かれたように顔を上げて目を見開いた渋谷は、優人を見てくしゃりと顔を歪めた。


「……分かった。今は店番してるから無理だけど、後で食べるよ。……ごちそうさま」

「ああ」


 もう懺悔なんていらない。

 代わりにもらった『ごちそうさま』だけを胸に刻み、優人は今度こそその場を後にした。








「本当に人がいませんね」

「ああ、見事なもんだ」


 厳太郎に言われてやってきた穴場とやらは、まさに言葉通りの穴場だった。

 近くに小さな神社のある石畳の通り道には優人たち以外の人の姿はなく、閑散とした雰囲気が漂っている。夜に一人でうろつくにはやや不用心であることを除けば、静かに花火を見るのに最適なスポットと言えるだろう。


 おあつらえ向きに置いてあるベンチに腰掛ければ、年季の入った木製のそれは寂れた音を周囲に響かせる。

 待ち望んでいた絶好のシチュエーションであるはずなのに、その静けさが逆に居心地悪く感じた。


 優人がベンチに座る一方で、雛はなぜか隣には座らず、優人と背中合わせになるような形でベンチの背もたれに寄りかかっている。

 顔を見られないのが今はありがたい。優人は気を取り直すように、すでに半分ほど食べ進めていたチョコバナナを一口かじった。


 皮肉なものだ。

 渋谷には甘い物でも食べて元気を出せと言っておきながら、当の自分がなかなかそうなれない。やがて始まる花火を雛と楽しむため、早く気持ちをリセットしなければならないと分かっているのに、蘇ったあの頃の記憶が邪魔をする。


 大して噛まずにチョコバナナを飲み込み、次の一口に取りかかろうとした、その時。


「優人さん」


 背中からの声が優人の動きを止める。


「……なんだ?」

「私、無理に訊くものではないと思っていました」


 雛の声音は、ゆっくりと静かに語りかけるものだったけれど、一音もこぼれることなく優人に届けられる。


「将来や進路の話になった時、優人さんは決まっていつも同じ顔をします。昨日アルバムの裏返しになってた写真を見た時も、先ほどご友人と話していた時もそうです」


 全部バレてる。


「実際何があったかなんて私には分からない。優人さんが自分なりに折り合いをつけた、もしくはつけようとしている話ならば、私が不用意に尋ねるのは余計な真似でしかない。もし優人さんが話したくなる時が来たら、その時はちゃんと受け止めてあげようと……そう思っていました。でも、もう黙って見ていられません」


 背中合わせ。お互いの顔が正反対の方に向けられた状態。

 けど雛の声が、心が、真っ直ぐに優人を見つめている。


「優人さんのことですから、このままだときっと私に気遣って話すまいとする。だから、はっきりと言いますね。――昔、何があったのか私に教えてください。私は、優人さんの力になりたいんです」


 かつてあなたが、そうしてくれたように。


 言葉の裏に込められた真摯な想いは、この期に及んで自分の内に封じ込めようとしていた優人の口を開くのに、十分すぎるぐらい深いものだった。


「……つまんない話なんだけどさ」


 だから、優人は語り出す。

 情けなかった少年じぶんの、つまらない過去を。

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