第155話『隙間を縫っての触れ合い』
夕食後に食休みを挟んでの入浴は、安奈たちから先に入ってもらうことにした。帰ってきたばかりの両親を気遣う意図が主ではあるのだが、単身者向けのアパートより格段に広くのびのびと足を伸ばせる湯船を、後を気にせず堪能したいという隠れた狙いもあったりする。
よって三番手も雛に譲り最後に入浴を終えた優人は、風呂の保温機能をオフにして浴室を後にする。
首にかけたタオルで濡れた髪を拭いながらリビングに戻れば、汗を落としてさっぱりした身体を冷房の涼しい空気と、ソファの上で振り返る愛らしい笑顔が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。結構長風呂だったんじゃないですか?」
「足を伸ばせる感動に浸ってた」
「あはは、確かにアパートの湯船じゃそうもいきませんからね。言われてみれば、私もいつもより長く入っちゃったと思います」
話題に上がったせいか、つい雛の入浴姿を思い浮かべてしまう。
頬を火照った朱色で染め、溶けたように緩んだ笑みを浮かべながら湯船に沈める雛。優美な手付きで掬ったお湯をむき出しの肩にかけると、伝い落ちる水滴は鎖骨を通り過ぎ、実にふっくらとしたカーブを描いてまた元の水面へと還っていく。
ほう、とこぼした吐息はどこか艶めかしい――。
一連の光景が水面の反射や湯気のせいで所々不鮮明なのは、優人の想像力の限界故だろうか。だいぶ
よかった、風呂上がりだから顔の赤みにはまだごまかしが効く。
「父さんたちは?」
「今日はもうお休みになるそうです。二人で寝室に行かれました」
「そっか」
時刻を確認すれば、もうまもなく二十三時に差し掛かる。外国で暮らしていた頃の両親の生活リズムは知らないけれど、時差による違和感を解消する意味でも早めに床に就いたのだろう。
夫婦の寝室は、リビングからだと廊下を挟んだ反対側の並びに位置する。同じ一階でも扉さえ閉めておけばうるさく感じないとは思うが、できるだけ会話の声量は落とした方がいいと判断し、優人はソファに座る雛のすぐ隣へと静かに腰を下ろした。
――途端に半身へと控えめな重みを感じたのは、まさか気のせいでもないだろう。
可愛らしいアピールをしてきた恋人を招き入れると、優人は背中から手を回し、差し出されるように傾いた頭に優しく手を乗せる。
「雛もお疲れさん」
「緊張しましたぁ……」
ふにゃふにゃといつもより緩んだ顔を見るかぎり、どうやら優人の読みは正解だったらしい。すでに普段の手入れを終え、抜群のキューティクルを完備している髪に労るような力加減で指を通せば、雛は甘える子猫みたいに小さく喉を鳴らした。
何せこの場所は、雛にとって初めて訪れた恋人の実家なのだ。
両親の雛に対する評価は満点に近い好感触だったし、二人も二人で雛が変に気負わないよう柔らかな態度を意識していたとは思うが、そうであっても知らずに気を張ってしまうところはあっただろう。
仮に逆の立場を想像してみると――……うん、正直雛より上手く立ち回れる自信は優人に無い。
改めて感じる雛の人当たりの良さ、そしてそんな彼女の頑張りを称えるべく頭を優しく撫で続ければ、優人の首筋を「はふ」と気の抜けた吐息がくすぐった。
「んー、こうされてると一日の疲れも吹き飛んじゃいますねえ……」
「ああ、同感」
「優人さんもですか? 私は頭を撫でてもらってるからいいですけど……」
「雛を抱き締めるだけで気持ちいいからな。……風呂上がりだから、いつも以上にいい匂いもするし」
「く、くすぐったいから、程々にしてくださいね?」
恥ずかしそうに眉尻を下げるも決して逃げようとはしない姿に笑いつつ、条件付きではあるが許可を頂いたことなので、少し首を伸ばして雛のつむじに鼻先を寄せる。
雛の肩が小さく震えた後、仕返しのようにぺしっと太ももを叩かれてしまったが、それぐらいならお安いものだ。
至近距離から香る匂いは甘く、濃ゆく、あからさまにならない程度に吸い込んでも、肺から身体全体に沁み入るような温かみがある。
もぞもぞと落ち着かなさそうだった雛もすぐに観念し、そっちがその気ならと言わんばかりに優人の胸に顔を押し付けた。
お互いがお互いの匂いに浸る光景は、人の目にはさぞはしたなく映るかもしれないが、両親が眠った以上は誰に見られるわけでもない。むしろ両親の手前控えていた恋人らしい触れ合いを補う意味でも、優人は腕の中の甘い匂いと温もりを存分に味わっていく。
「あ、そうだ」
「はい?」
いっそこのまま眠りに落ちても構わないほどの安息の中、一つ大事なことを思い出したので優人は顔を上げる。
「雛って明日は暇か?」
「ええ。帰るのは明後日ですし、特にこれといった予定はありませんけど」
「よかったら、これに行ってみないか?」
優人は取り出したスマホを点灯し、今日の日中に撮った一枚の写真を雛に見せる。
「花火大会ですか?」
「兼夏祭りだな。開催がちょうど明日の夜なんだけど、ここからならバスを使えばそう時間もかからないし、昔行ったこともあるからある程度は案内できる。花火も結構盛大に――」
「行きましょう」
「……即答」
「私が優人さんからの誘いを断るとでも?」
ドヤ顔だった。ふんすと意気込む雛の額を親指でくすぐり、「ならそういうことで」と指切りを交わす。
「案内できるということでしたら、当日はエスコートをお願いしましょうか」
「誘ったのは俺だからな。任せろ」
「えへへ、今からすごく楽しみです。……また一つ、優人さんとの思い出ができますね」
そう付け足した雛は優人を見上げ、淑やかな笑みで口元を彩った。
艶のある唇が弧を描き、やがてわずかに顎を持ち上げて、恥じらいを残しつつも優人へと差し向けられる。
据え膳食わぬは男の恥だ。焦がれるような金糸雀色の瞳に瞼のカーテンが下ろされると、優人は舌先で湿らせた唇を、ゆっくりと彼女のそれへと近付け、
――ガラッ。
前触れもなく、横にスライドするタイプのリビングの扉が開き、二人は思わず音の方へと目を向ける。
扉の向こう、佇むは父・厳太郎。彼はリビングへと一歩足を踏み入れたところで、いかにも今からキスします体勢の優人たちを視界に収めると、時間停止の超能力でも喰らったかのように動きを止める。
訪れる静寂は、まさしく音が消えたように静かだ。
「……喉が渇いて、水を飲もうと思ったんだが、」
『…………』
「その……………………すまん」
――スッ。
リビングの扉はたった今開いた時に比べ、とても、とても静かに閉められた。
数秒後、我に返った優人が弁明のために父の背を追ったのは言うまでもないだろう。
まあもっとも、キスをしようとしていたのは紛れもない事実なので、弁明の余地も何もなかったのだが。
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