第156話『せっかくだから形から』
『――でさあ、結局どうするこれ』
『どうするたって……なあ?』
子供たちの声が聞こえる。
声変わりしたばかりのような、まだ少し高く幼い音を残したような男の子たちの声。
ぼやけた視界に映る夕暮れの光景はどこかの河川敷近くで、声に混じって水の流れる音も微かに届く。
『なーんかいつものより見た目も悪いし、ひょっとして毒でも入ってたりして?』
『……そんなわけないだろ。味見はちゃんとしたって言ってたし』
『わーってるよ
ぼちゃん。
水の跳ねる音が嫌に鈍く響いた気がした。
『お、おい、何やってんだよ』
『だっていらねーし。え、まさかお前食べんの?』
『うえー、マジかよ渋谷ー』
『マジありえねー』
『は、はあ? 別に俺だっていらねーし!』
ぼちゃん。
二度目は、何かを振り払うように強かった。
『あはは、だよなー』
『おい見てろ見てろ、オレが一番遠く投げるからな。――それっ!』
『ばっかノーコンかよ』
ぼちゃん、ぼちゃん、ぼちゃん。
その音が響く度に全身の血が冷たくなって、心臓が凍り付いたように息苦しくなる。見たくないはずの光景なのに、目を逸らすことができなかった。
『でもこれさあ、明日とかに感想訊かれたらどーする?』
『え? そんなん適当にウマかったって言っときゃよくね?』
『それでまた持ってきたら?』
『あー……そっかー。マジめんどくせーな』
集団の真ん中にいる男の子が気怠そうに頭の後ろで手を組んだ。
その口の端が無邪気に、だからこそ、何よりも残酷につり上がる。
『大人しくいつもの持ってくりゃいいのに。――お前のなんかいらねーっつーの』
「…………?」
瞼を開くと、そこに広がっているのはいつもと違った天井で、目覚めたばかりの優人は内心で首を傾げた。けれどすぐ実家に帰ってきたことを思い出し、仰向けのままこみ上げてきた欠伸を噛み殺す。
「……久々に見たな」
カーテンの隙間から覗く明るい外を見ながらの言葉は、目覚める直前まで見ていた夢に対してのものだ。
記憶を辿ってもここ一年ぐらいはすっかり見なくなっていたのに、どうしてまた。
実家に帰ってきたせいか。それとも、昨日昔の写真なんかを見たせいか。
「ったく」
どうしたって自分の中から完全には消えてくれない記憶の
「優人さん、起きてますか?」
もしかしなくても起こしに来てくれたのだろうか。
扉から顔だけ出して室内を窺う雛に「ちょうど今起きた」と上体を起こしながら手を振ると、なぜか眉根を寄せていた彼女はほっと安心したように表情を和らげ、そのままベッドの近くまで歩み寄ってくる。
「悪いな、わざわざ朝から起こしに来てくれて」
「朝からって……もう十時半ですよ?」
「え」
すでに寝間着から私服に着替えている雛に言われて目を瞬かせ、充電ケーブルに繋いでスマホで現在時刻を確認する。確かに彼女の言う通り、夏休みでもなければとっくに大遅刻の時間が表示されている。
夏休み中でもここまで起床が遅いことはなかったのにと自分自身を
「結構汗もかいてるみたいですし、ひょっとして体調悪いんですか?」
雛に指摘され、初めて自分の身体にまとわりつく不快感を自覚した。
優人の額や首筋に滲むじとりとした汗は夏の寝起きにしても些か量が多い。
清潔とは言い難い液体が手に触れようとも構わず、雛は優人の額に優しく手を添えたまま、その顔色を見定めるように目を
普段は綺麗だと思える
「大丈夫だって。ちょっとぐうたらし過ぎただけだ」
「んー……まあ、確かに熱は無いみたいですけど……」
「今日は花火だって見に行くんだろ? 心配しなくても体調は万全だ」
ごまかすようにやや早口で捲くし立てたものの、その言葉自体に嘘は無い。
滲む汗も、未だ残るわずかな胸のつかえも、シャワーの一つでも浴びれば流れ落ちてさっぱりとするはずだ。
せっかくの約束を破るつもりないと雛の頭をぽんぽんと叩くと、ようやく彼女はいつもの愛らしい笑顔を見せてくれるのだった。
「へえ、いいじゃない花火大会。いってらっしゃいな」
さすがに黙って出かけるわけにもいかないので、昼食後――優人にとっては兼朝食になってしまったが――の席で花火大会の件を両親に伝えればあっさりと許可は下りた。
それどころか、祭りの屋台で済ませる予定の夕食分の食費に色を付けた小遣い二人分まで進呈してくれるというのだから、実に太っ腹である。
デートねお二人さん、と生温かい声音でからかわれるぐらいなら甘んじて受け入れよう。
「ちなみに母さんたちはどうするんだ?」
「そうねえ……正直まだ疲れも残ってるし今回は家でゆっくりしてようかしら、厳太郎さん」
「そうだな。花火なら二階のベランダからでも多少は見える」
「二人の邪魔して馬に蹴られたくもないしねえ」
「馬って……会場では別行動すりゃいいだけの話だろ」
「でも、うっかりあなたたちがイチャイチャしてる場面に出会したら気まずいじゃない。こっちもそこまでの野暮はしたくないわよ」
びくっ。
その瞬間、昨夜の一件を唯一知らない安奈を除く、他三人が同時に固まった。
なんとタイムリーな話だろうか。
目撃された優人と雛は羞恥がぶり返すし、事故とはいえ安奈が言うところの『そこまでの野暮』を働いてしまった厳太郎は、腕を組んで居たたまれなさそうに目を伏せている。
一番早く復帰した優人が「そうだな……」と微妙に実感と含みのある相槌を打てば、雛はうっすらと頬を染めて視線を明後日の方向に逸らし、厳太郎は控えめな咳払いをこぼした。
あれこそ夢ならば、どれだけ良かったことか。
誰か水面下のこの空気をなんとかしてくれと願った時、安奈が「そうだわ!」と勢いよく手を叩く。
「ねえ雛ちゃん、どうせなら浴衣着ない?」
「え、ゆ、浴衣ですか?」
「せっかくのお祭りデートですもの! 家にあるのでたぶんサイズも合うと思うから、どうせなら着飾りましょうよ!」
「でもお金まで頂ける以上、そこまでしてもらうのも……」
「優人を見惚れさせたいとは思わない?」
「……思います」
「おい」
そういうのはせめて本人がいないところで
優人のむなしいツッコミは生憎とスルーされ、そそのかされて気合い十分の雛は安奈に連れられてリビングから出ていった。
着飾ってくれるのはもちろん嬉しいし、浴衣姿の雛を見れるのはとても楽しみではあるのだが、夜スタートの花火大会の準備にしてはさすがに気が早すぎというものだろう。
いなくなった二人に対して半ば呆れ笑いを浮かべていると、厳太郎から肩を叩かれる。
「優人には俺のを着せよう。こちらもサイズは問題ないはずだ」
「は、俺も?」
「彼女が着飾るのにお前はそのままでいるつもりか?」
「…………」
ぐうの音も出ない正論であった。
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