第129話『最近の興味』
視線の先で玄関の扉がゆっくりと閉じる。
その様子を、正確には扉の向こうに消えていく彼の姿を最後の一瞬まで見届けてから、雛はその場にぺたんと力が抜けたように座り込んだ。
「はぁぁああ……」
こぼれる吐息がどうしようもなく熱い。頬に手を当てると風邪を引いたみたいに熱っぽいし、心臓がうるさいぐらいにばっくんばっくんと騒いでいる。
……さすがに、いってらっしゃいのキスはやり過ぎただろうか?
優人も満更ではなさそうどころか嬉しそうだったし、なんならベッドから起きる時には彼の方からキスのリクエストを貰ったわけだから、喜んではくれているはず。
けれどファーストキスを終えたばかりの昨日の今日、こみ上げる恥ずかしさにはまだ慣れない。というか、たぶんしばらく慣れない。
自分からやっておいて、と仲の良い友人たちからは呆れられるかもしれないが、やっぱりそれとこれとは別問題だ。
それもこれも、何の前触れもなく合い鍵を渡してきた優人が悪い。
いつでも来ていい、そばにいていいと言われたみたいで、さっきは彼への愛おしさが我慢できなかったし、今は今でひとりでにへにゃへにゃと頬が緩んでしまうのを抑えられない。
今鏡の前にでも立てば、さぞみっともない自分の顔が見れることだろう。
浮かれてるなあと自覚しつつ、手の平にある
何の変哲もない家の鍵。普段から使っている自分の部屋の鍵を横に並べてしまえば、どっちがどっちだか分からないぐらいに代わり映えのないもの。なのに、唯一無二の宝物みたいに見えてしまう。
いや、真実宝物で大事にしないといけない。防犯的な意味はもちろん、優人からの親愛の証明を無くすなんてあってはならないのだから。
これで雛が持つ鍵は三本になった。
自分の部屋。優人の部屋。そして――今は机の引き出しの奥に押し込んだままの、空森の家の鍵。
不意に義理の両親の顔が頭の中に思い浮かぶ。こうしてアパートでの一人暮らしを認めてくれるのが現状だが、あの二人は今、自分のことをどう思っているのだろうか。
「…………」
答えが出そうにはない問題には早々に見切りを付け、思い浮かんだ義理の両親の姿を振り払うまではせず、静かに意識の底へと沈めていく。そして立ち上がると、リビングに戻って優人の部屋の中をざっと眺めた。
さて、今日はこれからどうしようか。
自分の部屋に戻れとは言われず戸締まりを任されたぐらいだから、このままここでゆっくりすることは許してくれたのだろう。
とはいえ、いくら相手が恋人でもあくまで人様の部屋だ。何の気兼ねもせずくつろぐのは違うと思うし、勝手に物色なんて以ての外。優人のプライベートは尊重しないとだ。
……まあ、後でベッドの下を覗く程度ならしちゃうかもだけど。
完全には断ち切れない自らの好奇心に罪悪感を抱きつつ、雛はおもむろに優人のベッドへと歩み寄るとぼふんと身体を倒した。
反発するマットレスの柔らかさが気持ちいい。そして何より、深く息を吸えば感じられる好きな人の残り香に心が安まる。
どうせ夕方まで優人は帰ってこない。その事実が引き連れてきた寂しさを埋めるため、雛は肩から毛布にくるまり、枕にぎゅうっと顔を
染み付いた優人の匂いに全身を包まれていると、昨日からの幸せな思い出がどんどん頭の中に蘇ってくる。
その最たるもの、優人と交わしたファーストキスの感触を振り返るように、雛は人差し指で自分の唇をそっと撫でた。
(気持ちよかったなあ……)
振り返るだけでも身体が熱を持ち、心臓がドキドキと早鐘を打って落ち着かなくなる。
幸せな
手の平へのマッサージはこそばゆくて安らいだし、雛を抱き寄せた腕は力強くて頼りがいがあったし、向けられた視線は今まで一番優しい光を灯していたと思う。
優人だってきっと緊張はしていたはずなのに、それでも雛を優しく導いてくれた心遣いが何よりも嬉しい。
眼鏡をぶつけてしまうというちょっとしたポカはあったけど、本当に最高のファーストキスを優人はくれた。
そして、そんな甘くとろけてしまいそうなキスの一方で、まさに今雛が寝転がっているベッドの上では熱く燃え上がるようなキスも与えられた。
なんというか、例えるなら、あれはそう――
(食べられちゃうみたいだった)
強引に唇を奪われ、雛はただ優人の腕の中でされるがまま。途中から身体だけは勝手に応えていた気がするけれど、頭の中は血が沸騰したように茹で上げられておよそまともな働きをしていなかっただろう。
――まだ、準備ができてないから。
そう言って優人は最後の一線を越えることはしなかった。雛もそういう行為は『いつか』とこれから先においての約束として受け入れた。
だって雛も優人もまだ学生、それぞれ親に養ってもらっているという社会的にはまだ全然弱い身分だ。そんな自分たちが軽はずみに行為に及ぶのはご法度なのだから、する場合はきちんと心体ともに備えに備えてからでなければならない。それは重々承知している。
「……でも」
煮え切らない言葉がぽつりとこぼれる。
もしあの時、求められたとしたら……果たして自分は断れたのか。正直自信はない。
普段の力強さのある鋭いものとは違う、時折見せる優しいものとも違う、まさしく飢えた狼のような貪欲な目。じっと見つめていたからこそ気付くことのできたほんの一瞬の色だったけど、あの時の優人はそんな目を雛に向けていた。
優人が珍しく見せた『男』の一面は、同時に雛に自分が『女』であることも強く意識させた。あのまま身を委ねてもいいとさえ思わせるぐらいに。
「うぅ……!」
頭から毛布を被ってばたばたと両足を動かす。誰の目もないのに、真っ赤になった顔を晒しているのが無性に恥ずかしかった。
優人には心の準備が出来てないとか
こんなの、いやらしい。
「…………」
ひょっこりと顔の上半分だけを毛布から外に出し、手の届く範囲に置いてあったスマホを掴む。画面を点灯、検索サイトへアクセス、ぷるぷると微かに震える親指でどうにかフリック入力を進めていく。
――少し話が逸れるのだけど、女子だけの場で繰り広げられる会話というものは結構明け透けだ。
誰々がかっこいい、誰々なんか良さそう、誰と誰が怪しいなどなど。
これぐらいならまあ可愛いに収まる範疇だが、そこに彼氏持ちの面々が加わったりするともう少し話の深度が深くなる。
相手のどこを好きになった?
どんなデートをした?
――
付き合ってまだ日が浅い上に交際経験が優人だけな雛は比較的聞き役に回ることが多い。というより、自分たちよりも進んでるカップルの話についつい聞き入ってしまう。
つまるところ今の雛は、そういうことに人一倍敏感な時期なのである。
検索を終え、結果がずらずらと表示されるスマホの画面。その中で見つけた『はじめての』と修飾されたリンク先をタップする。
……私、朝からなにやってるんだろう。
冷静な一部分が告げたそんな呟きは、ネットの海から流れ込む刺激的な世界にいとも容易く押し流されていくのだった。
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