第128話『まるで、どころかどう考えてもそれな二人』
「――さん、――てください」
誰かの声が鼓膜を揺さぶる。いや、揺さぶられているのは鼓膜だけでなく、ゆっくりとした力加減が断続的に優人の身体を揺り動かしているようだった。
「優――ん、もう朝――よ?」
また誰かの、耳に心地良い軽やかな声が聞こえた。加えて目元に当たる光が、深い眠りに沈んでいた意識を少しずつ掬い上げるようで、それにただ導かれるまま優人は薄く目を開く。
――ふわり。天使のような優しい微笑みが優人を出迎えた。
「……ひな?」
「はい。もう朝ですから、そろそろ起きてください」
優人より先に起きてすでにある程度の身支度を整えたのか、服装こそパジャマのままだが眼鏡を外した姿の雛。
穏やかな光を含ませた金糸雀色の瞳がこちらを見下ろし、リップが塗られているわけでもないだろうに潤いを感じさせる唇が緩い弧を形作る。
徐々に輪郭がはっきりとしてくる視界の中、その真ん中に存在する雛の笑顔はとても眩しく美しく、まるで夢の中のワンシーンのよう。だから頭の中は未だ現実と夢の境目を漂うみたいに覚束なく、いつもの朝とは違う状況に優人は疑問を浮かべた。
「なんで雛が、ここに……?」
同棲してるわけでもないのに、起きたら目の前に恋人がいる朝。普段だったらまずありえないはずの光景に問いを投げかけると、目前の端整な顔立ちが「むっ」とほんのり不満げに歪んだ。
「昨日のことを忘れたと言うんですか? 優人さんったらひどいですね」
ほっぺたを膨らませた拗ね顔がとても可愛らしいけれど、不満を露わにされた以上はこのままというわけにもいかない。雛が口にした『昨日』というキーワードから何がどうしてこうなったのかを優人は思い出そうとする。
だが、それよりも早く雛が動いた。
ベッドの脇で膝立ちだった身体を持ち上げ、優人の頭のすぐ横に片手を突く雛。
おもむろに近付いてくる彼女の口元にはいつしか小悪魔めいた笑みが浮かび、重力に従って垂れる横髪を耳にかけると、紅く色付いた耳たぶが露わになる。
そして、白磁のような素肌と差した紅色の対比に意識を割かれた間に、雛から唇を重ねられた。
ちゅっ、と一度強く吸い付かれたかと思えば、今度は労るようにはむはむと唇を唇で挟まれ、甘さの混じる吐息が唇の表面を撫でる。
起き抜けで
雛が優人の部屋に泊まって、初めてのキスを交わして、一緒のベッドで眠りについた幸せな一夜のこと。
小さな水音を立てて唇が離れる頃には全てがまざまざと脳裏に浮かび上がり、朧気だった意識は完全な覚醒を果たした。
眼前に広がるどこか妖艶な雛の笑みに心臓がドクンと強く脈打つ。
「これで、思い出しましたか?」
「……はい」
それはもう、ばっちりと。
雛からのキスは見事な目覚ましとなり、おかげで眠気は綺麗さっぱりどこかへ吹き飛んだ。
朝という時間帯もあって別の意味で元気な身体の一部分の昂りをどうにか鎮めていると、今や顔中を真っ赤にした雛が優人から離れる。
そういえば、昨日のキスは全て優人からだった。
自分から迫るのは相当恥ずかしかったらしく、雛は自分の顔を冷ますようにぱたぱたと両手で扇ぎ、ある程度赤みが抜けたところで口を開く。
「ほら、いつまでもぼーっとしてないで起きてくださいな。私は振替休日ですけど、優人さんは学校があるんでしょう? 朝ご飯を用意しましたから食べてってください」
「ああ、この匂いはそれか」
先ほどからどことなく香っていた匂いの正体が分かった。
すんすんと鼻を鳴らすと捉える匂いは雛の背後、台所のコンロで弱火にかけられている味噌汁のそれだろう。
朝食はほぼパン食の優人だが、雛が用意してくれたのならば和食も大歓迎だ。
「もう出来上がりますから、優人さんは先に顔を洗ってきてくださいね」
「あー、その前にさ、雛」
「はい?」
コンロの前へ戻ろうとする雛を呼び止める。
せっかくの朝食をゆっくり味わうためにも時間をかけるつもりはないが、先ほどの触れ合いはとても良いものだったので、
「起きる前に、もう一回キスしてくれないか……?」
人差し指を立て、雛へ願う。
きょんとと目を見開いた雛は優人を見つめ返し、少しの間が空いてから頬を淡く染め、交差させた左右の人差し指で唇の前に小さな
「ダメです。それでは順序が逆ですから」
「順序?」
「はい。――起きたら、その、してあげますよ?」
こてん、と誘惑するように小首を傾げる雛。
ベッドのスプリングの反動を利用してすぐさま起き上がる優人を目の当たりにし、雛は呆れと嬉しさを滲ませた笑みを浮かべて身体を寄せてきた。
「ごちそうさま」
「お粗末様です」
ご飯一粒残さず平らげた空の食器たちを前に手を合わせる。
簡単なものですけど、と本人に前置きされて振る舞われた朝の食卓ではあったが、雛の手作りだけあってやはり味わい深いものだった。
ご飯こそ冷凍のストックだったものの、玉子焼きにウインナー、付け合わせのレタス、そして出汁のきいた味噌汁という和風の構成。起きた直後から美味しそうな匂いを漂わせていた味噌汁はもちろん、玉子焼きも優人好みの甘めの味付けだったので朝から大満足である。
一休みした後に食器洗いを始める雛にさすがに申し訳なくなって優人がやろうとしたが、「私は休日でゆっくりですから」と念押しされてしまえば大人しく引き下がる他なく、余裕のある時間を利用して抜かりなく身支度を整えることに。
荷物を確認、洗面所の方で寝癖を直し、今は雛がいるからそのままそこで着替えも進める。制服のシャツのボタンを留めたタイミングで洗面所の戸がノックされたので開けると、食器洗いを終えた雛が優人の姿を見て微笑んだ。
「どうした?」
「いえ、ネクタイを締めましょうかって思ったので」
優人の片手に握られたネクタイを指さす雛。
尽くしたがりな彼女の行動に際限なく甘えてしまいそうだとやや危機感を覚えながらも、結局「頼む」と雛へネクタイを渡した優人はその場で背筋を正す。
緩んだネクタイを直してもらうならともかく、こうして一から締めてもらうのは初めてではなかろうか。けれど雛は特別迷うことなく、スムーズかつ丁寧な手付きで優人の首回りを整えていく。
雛のことだ。こっそり予習でもしていたのかもしれない。
「どうせならお弁当も用意したかったんですけどねえ」
手を動かしながら本気で残念そうな呟きに優人は苦笑はこぼす。この恋人さんはどこまで世話を焼けば気が済むのだろうか。
「さすがに食材が足りなかったろ?」
「です。私の家のも修学旅行前に粗方片付けちゃいましたから」
「朝飯作ってもらっただけで大助かりだ。美味い飯、ありがとな」
「どういたしまして。――ん、これでばっちりです」
最後に軽くきゅっと締められて完成だ。ついでに身も心も引き締まった気分をつつ、今一度「ありがとう」と雛へお礼を述べた。
「よし、じゃあそろそろ行ってくる」
「はい」
優人が玄関に向かうと、当然のように雛がその後ろにくっついてくる。少し広めのワンルームなので大した距離ではないが、こうしてわざわざ見送りまでしてくれることが嬉しい。
「あ、ここの戸締まりどうしましょうか」
靴を履こうとした矢先、背後で雛が口にした疑問に優人は動きを止める。
言われてみれば確かに。優人が先に外出してしまった場合、この部屋の鍵を持たない雛は出るに出られなくなってしまう。
雛の部屋はすぐ隣であるものの、朝から色々と世話をしてくれた彼女を急かすように帰らせてしまうのは忍びない。
それよりは、
踵を返して室内に戻り、貴重品類をまとめている引き出しから鈍色の物を取り出す。
それをためらわず雛へ差し出すと、金糸雀色の瞳はぱちくりと瞬いた。
「優人さん、これ……」
「見ての通りの合い鍵。これ預けるから、戸締まりは任せていいか?」
「それは、構いませんけど……いいんですか、そんなあっさりと」
「まあ恋人だしな。信頼の表れってことで」
「……もう、是が非でも裏切れない信頼ですね」
裏切りなどとは微塵も感じさせないような心からの笑みを形作り、雛は両の手の平を向けて合い鍵を受け取る。大事そうに、愛おしそうに両手で包むと、それを胸に抱いてふにゃりと表情を綻ばせた。
これで戸締まりも心配ない。
改めて玄関で靴を履くと、トントンと肩を叩かれる。
身体を起こして振り返った先、頬に紅色の薄化粧を施した雛が優人の胸に寄りかかり、少し背伸びした彼女からそっと唇を重ねられる。
新鮮な果実のように瑞々しくて甘い感触は、何度味わっても色褪せることはないだろう。
「いってらっしゃい、優人さん」
「いってきます」
見惚れてしまいそうな笑顔に笑みを返しながら、優人はふと思う。
起こしてもらって、朝食を作ってもらって、ネクタイを締めてもらって、いってらっしゃいのキスまでしてもらって。
――これ、新婚みたいだなあ、と。
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