第127話『一緒のベッドでお休みなさい』

 優人の腕の中から雛が離れたのは、それからしばらくしてのことだった。

 キスを何回したのかは数えてない。そもそも一回の明確な区切りというのものが分からなかったし、雛とのキスは唇が離れてもまたすぐどちらからともなく重ねてしまうような、終わりがひどく曖昧なものだったからだ。


 雛と共有する幸せな感触や熱はいつまでも続いて欲しくあったが、残念ながら時間というものは有限である。

 度が過ぎた夜更かしは明日の登校に差し支えるので、名残惜しい気持ちを抱えつつも優人は入浴を済ませるため浴室へ向かった。


 ちなみに、修学旅行の日程が本来は休日である日曜日にまで及んだので、雛たち二年生の明日は振替休日となっている。

 それこそ適当な理由を付けて優人も休んでしまえば、明日は一日雛とまったりすることができるけれど、さすがにズル休みを許してくれるほど彼女も優しくはないだろう。


 色々と昂らされた心臓のクールダウンも兼ねていつもより長く湯船に浸かり、しっかり安らいだところで風呂から上がる。

 生乾きの髪をタオルで拭いながらリビングに戻れば、ソファに座ってくつろいでいた雛がこちらを向き、ふわりと柔らかい微笑みで「おかえりなさい」と出迎えてくれた。


 普段ならば入浴を済ませた場合、特別何かすることでもないかぎりあとは寝るだけ。つまり一人の時間だ。けれど、今夜はこうして雛がそばにいる。そのことを実感して面映ゆさで自然と口元が緩んでしまう。


「優人さん、髪ってまだ乾かしてないです?」

「ああ、ドライヤーもこれからだし」

「みたいですね。では、私にさせてもらえませんか?」


 笑みを浮かべたままの雛の提案に、優人はわずかに首を傾げた。


「そりゃいいけど、何でまた?」

「そういう気分なんです。いいということでしたら、さあさあこちらへどうぞ」


 ローテーブルの前に用意したクッションをぽすぽすと叩き、そのすぐ後ろで膝立ちになって優人へ手招きをする雛。

 こういったスキンシップもしたいのだろうという雛の考えを察し、もちろんウェルカムな優人は素直にクッションの上に胡座をかく。

 楽しそうに準備に励む雛の様子を背中で感じつつ姿勢を正すと、すぐにドライヤーの温風、そして細い雛の指が優人の髪をくすぐり始めた。


「あー……誰かにやってもらうのって気持ちいいなー……」

「やってくれるんなら誰でもいいんですかー?」

訂正てーせー、雛だから最高でーす」

「ふふ、ありがとうございまーす」


 ドライヤーを使いながらなので、お互いやや声を大きくしての会話だ。

 雛に半ば誘導尋問された形だが、実際ここまでの心地良さと安らぎを感じるのは間違いなく雛の手腕によるものだろう。


 適度な角度で温風を当てながら、雛の五指が優人の頭を小気味よく撫でる。彼女の手際がいいのもあるが、清潔感を保つために日頃から切り揃えてある優人の短髪はそう時間もかからずに乾いてしまうから少し残念だ。


 ドライヤーでの乾燥が終わり、お次はヘアブラシで髪を整えられていく。より一層丁寧さを増した雛の手付きを感じられるこの時間は、まさに至福の一言に尽きた。


「年末にお泊まりした時も、こうやって優人さんの髪の手入れをしましたよねえ」


 小さな鼻歌の合間に聞こえた雛の呟きに、「そうだったそうだった」と優人は同意を返す。


「あれからもう半年、色々あったよなあ。長かったような、短かったような」

「ですね。どちらかと言えば、私としては長く感じましたけど」

「そうなのか?」

「ええ。優人さんからはこれまで、数え切れないたくさんの思い出を頂きましたから」


 ヘアブラシを操る手が離れ、かと思えばほっそりとした雛の両腕が肩から前に回される。後ろから抱き付かれたのだと優人が理解するよりも早く、全幅の信頼を現すようにぴったりと寄せられる温かな身体。


 体勢による身長差の関係か、優人の肩甲骨周辺に当たるどこよりも柔らかく弾力もある感触に心臓をかき乱されていると、熱っぽい吐息がそうっと優人の耳をくすぐる。


「優人さんと知り合ってまだ一年足らず。ちょっと辛い時もありましたけど、今は充実し過ぎるぐらい幸せな毎日を送らせてもらってますよ」

「充実し過ぎるってのは違うんじゃないか? 雛みたいな頑張り屋なら、もっと幸せになってもいいと思うぞ。てか、する」

「あはは、殺し文句ですねえ。その気持ちは嬉しいですけど、私だって優人さんを幸せにしたいんですからね? 貰ってばかりなんて嫌ですもん」

「俺は十分過ぎるほど幸せだよ」

「こーらー、優人さんも私と似たようなこと言ってるー」

「悪い悪い」


 珍しくテンションが昇り調子な雛から、じゃれつくような力加減で首を締められる。

 背中で弾む二つの山の柔らかさが嬉しいやら気恥ずかしいやら。けど当たってることは指摘せず、こっそり感触を味わってしまうのは男としてのさがといったところだろう。


 ひとしきり児戯のような触れ合いを続けた後、雛が「あふっ」と小さな欠伸がこぼしたところで優人は振り返った。


「そろそろ、寝るか?」

「……はい」


 雛は恥ずかしそうに目を伏せてこくりと頷く。いじらしいその姿を前にあやうく押し倒してしまいそうな劣情をぐっと抑え込み、彼女の手を取って立ち上がった。

 ベッドの毛布をめくり、その中へ入るように雛を促す。いそいそと真っ白なシーツの上に横向きに寝転がんだ雛はややあって恥じらいから胸に手を当てつつも、期待に満ちた眼差しで優人を見上げた。


 ここから先は間違いなく理性の耐久試練を余儀なくされるが、恋人として関係を深めた今、「じゃあ俺はソファで寝るから」などと言い出すつもりは毛頭ない。


 まるで小動物のように縮こまる恋人へ軽く笑みを送り、優人はベッドにゆっくりと身体を横たえる。

 二人を覆うように毛布をかけ、さらに照明のリモコンを操作して常夜灯に。


 オレンジの薄暗い光が室内を包む込む中、次第に目が薄闇に慣れてくると、眠気をはらんであどけなさの増した雛の顔が目の前に浮かび上がり、自然と胸が高鳴る。

 それは雛も同じらしく、照れ混じりの顔が優人を見つめてふにゃりと綻んだ。


「上機嫌そうだな」

「それはもう。今夜はずーっと優人さんに寄り添っていられるんですから、嬉しくもなりますよ」

「そーですか」

「……優人さんは違うんですか?」


 微妙に気乗りしない風を装った優人の態度に悲しくなったのか、少しショックを受けたように雛の眉尻が下がる。

 そんな彼女をあやすみたいに頬に手を添えて一撫ですると、優人はあえて声音を低くして問いかけてみた。


「喜んでくれるのは嬉しいけどさあ……俺に襲われるかも、とか考えてはくれないのか?」


 ぱちくりと金糸雀色の瞳が瞬き、すぐにかあっと燃え上がるの如く雛の顔が首から真っ赤に染め上がる。

 薄闇であってもはっきりと分かる赤色を見届けてから、わざとらしく優人は口の端を吊り上げた。


「しないよ。今夜はまだ、色々と準備もできてないからな」


 言葉通り手を出すつもりはなく、軽いおどかし程度の問いかけのつもりだ。ちょっぴり悪戯心が湧いただけで、雛がどんな風に可愛らしく狼狽うろたえるのかを見てみたかった。


 だいたい予想通りの反応であたふたとする雛を満足しながら眺めていると、やがて潤んだ瞳が真っ直ぐに優人に向けられる。

 雛の手が、手元のシーツをきゅっと握った。


「……私もまだ、心の準備が出来てるわけじゃありません、けど……いつかは、優人さんとそういうこと……し、したいと思ってます、から」

「雛……」

「わ、私だって分かってるつもりですし、知識も一応ありますっ。優人さんの恋人として……そういう気持ちもちゃんと、受け止めてあげなきゃって――んむっ」


 そこから先の言葉を半ば噛み付くようなキスで優人は遮った。

 先に進めるつもりはない。けど、今にも理性の壁を打ち壊して流れ出しそうな欲求を少しだけ解放させて欲しかった。


 先ほどよりも強く雛の唇に吸い付き、時折閉じられたそれを舌先でそっと舐めてみる。その度にびくびくと敏感に身体を震わせる雛を抱き寄せ、何度も何度も、自分でも恐ろしいぐらい熱くなった息をこぼしながら雛へのキスを繰り返した。


 雛も、戸惑いながらその責めに応えてくれる。

 狭い毛布の中で、キスを受け入れやすい角度を探るように首を傾け、少しずつ優人からの求めに合わせて唇を差し出す。

 一際長く唇を触れ合わせてから顔を離すと、やや荒い息遣いの雛が呆然とした眼差しを優人に向けた。


 力を吸い取られてとろりと脱力してしまったような、無防備なまでの雛を腕の中に抱え、優人は自分の気持ちを言葉に乗せる。


「ありがとな、雛」


 少し強引に触れて驚かせてしまったであろう雛の気持ちを和らげるため、乱れた前髪を整えてあげながら囁きかける。


 深い繋がりを求める気持ちが解消されたとは言えないが、今はそれ以上に、雛へ優しさと慈しみを与えたかった。優人を受け入れると約束してくれた彼女へ、出来るかぎりの感謝を送りたかった。


「これから先でさ、お互い準備が出来た時は……その、何だ、よろしく頼む」

「……もう、強引なのか紳士なのかどっちかにして欲しいものです」


 咎めるような物言いのくせに破願する雛。


「そこはほら、一粒で二度美味しいって感じで許してくれ」

「何ですかそれ、許しちゃいましょう。私の方からも、よろしくお願いしますね?」

「ああ。――おやすみ雛」

「おやすみなさい」


 寝る前の挨拶を交わして目を閉じる前、最後を締めくくるのはもちろん、唇同士の甘い甘いキスだった。

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