第126話『頑張り屋さんとのキス』

 ――キスがしたい。


 熱っぽい吐息と共に囁いた願いの言葉は、優人の脳髄を痺れさせるようだった。

 雛の指先でなぞられた唇が微かに震え、たまらず吐き出される息に緊張の色が混じるのは自分でもよく分かる。


 少し恥ずかしい話をすると、雛とのファーストキスはロマンチックな時と場所でという考えが優人にはあった。

 特に具体的なプランがあるわけではないけれど、例えば綺麗な夜景が見えるところみたいな、そういったムードのある状況で。


 一生に一度の経験になるのだから、せっかくなら雛にとって素敵な思い出にしてあげたかった。そういう意味だとここで彼女のお願いを受け入れてしまうのは、優人の本意とは言い難いかもしれない。


 でも、ここで止まれるわけがなかった。


 優人を見つめる金糸雀色の瞳は熱く湿り、どこまでも真摯に彼女の想いを伝えてくる。恋人として、また一歩先へ進みたいのだと。

 こんな甘い懇願を断れるすべなど優人は持ち合わせていない。きっと、これから先も。


 優人に一欠片だけ残された冷静な思考が手探りでテレビのリモコンを拾い、電源をオフにする。

 雛の息遣いすら聞き逃したくない。余計な音は邪魔だ。


「雛」


 無音になった空間で名前を呼び、優人の唇に触れた後どうしたらいいか分からず宙に浮いたままの雛の手を取る。優人の片手で容易く覆える手首は力を入れたら折れてしまいそうなほど細く、柔く、性別の違いによる体格差をまざまざとぶつけてきた。


 今になって自分の発言の意味を強く実感したのか、白磁のような雛の頬が鮮やかな薔薇色で染まり出す。

 触れ合った華奢な身体が分かりやすく強ばるので、優人はそれを解すように雛の手の平を親指の腹でくすぐった。


「……くすぐったい」


 拙いマッサージでも効果はあったらしい。雛がふっと目元を和らげ、彼女の身体から力が抜けた。

 掴んだ雛の手を彼女の膝へとゆっくり下ろしてから、今度は雛の頬に手を添え、同時にもう一方の手を引き締まった腰とソファの間に滑り込ませる。柔らかな肢体は軽く力を入れただけであっさりと抱き寄せることができた。


 心臓が張り裂けそうなほど拍動している。優人が緊張で渇く唇を舌先で濡らすと、その様子をぼうっと眺めた雛も同じように唇を舐めた。

 薄ピンクの舌が施した、艶のある唾液のコーティング。

 あやしい輝きを宿すそれを前にし、優人の心臓はまた一段と強い高鳴りを見せる。


 キスを、どこに、とまでは明言されてないけれど、ここまで来て額や頬、ましてや手の甲なんかでお茶を濁す気はない。

 向かう先はただ一点――差し出すように斜め上を向き、微かな尖りを見せる、雛の唇。


「目、閉じて」


 短く告げると眼鏡のレンズの奥で瞼のカーテンが下りる。

 準備は、整った。

 はやる気持ちを最低限押し殺し、優人は雛の唇へ自身のそれを近付ける。


 そして――――…………、コツン。

 唇同士が触れ合う前に、何か固いものが優人の顔に当たった。


「…………」

「……ゆ、優人さん?」

「……悪い、眼鏡外していいか?」

「え、あ、そう、ですね。邪魔ですよね……あはは」


 何とも格好がつかない。角度なりを調節すれば眼鏡があってもできるとは思うが、今の自分たちにそこまで気を回す余裕はないだろう。


 目を開けて申し訳なさそうに苦笑する雛から眼鏡を外し、テーブルへと置く。

 透明度の高いレンズ一枚を取り払ったところでそう変わるはずがないのに、直接見る金糸雀色の輝きが増したように思えた。まるで最高級の宝石だ。


「優人さん……」


 今一度瞼の封がされ、上擦った甘い懇願が優人を先へと誘う。

 今度こそは間違えないようにと強く思いながら、これまでで一番丁寧な早さで顔を寄せ、

 直前に優人も、

 目を、

 閉じ――


「……ん」


 二人の唇が、重なった。


 蓋をされたような甘い声を捉えたのは聴覚でなく、重なり合う箇所からの触覚。肌感覚の全てが唇の一点に集中し、なのに思い浮かぶのはシンプルな感想ばかりだった。


 柔らかくて、熱い。

 燃え上がるような激しいものとは異なる、じんわりと身体の奥底に沁み込んでくるような緩やかな熱。その温もりをただ雛と共有する。


 どれぐらいそうしていたのか。

 息苦しさを覚え始めたタイミングで優人の方から唇を離すと、微かな水音が尾を引くように響き、目を閉じたままの美しい顔立ちが優人の視界に広がる。

 長い睫毛が感極まったように震えた後、瞼の向こうから現れた雛の瞳は歓喜の色に染まっていた。


「……キス、しちゃいましたね」

「ああ、したな」

「えへへ……やったぁ」


 大人びた綺麗さから一転、雛の表情が幼い子供のように綻ぶ。

 恥じらいを残しつつも幸福感をたっぷりと詰め込んだ笑顔は、見ているこちらの心を洗ってくれるようだ。


「ごめん、もうちょっと早くしてあげればよかったよな……」


 優人とのキスをずっと待ち望んでいてくれたことはこれでもかと伝わってくる。

 今日だってきっかけを作ったのは雛なのだから、一人の男としては申し話なさを感じてしまう。


 けれど雛は、「いいんですよ」と優しい微笑みと共に首を横に振り、群青色の髪を軽やかに揺らす。


「次は私が勇気を出すって約束しましたもの。……私は今、とっても幸せです」


 大切な現在いまを噛み締めるように胸に手を当てて、深呼吸をする雛。

 服の上からでも形の良さが分かる膨らみが、その丸みを柔らかそうに歪めながら収縮する。


「幸せですけど、唇と唇とのキスって難しいですね。ドキドキしてるのもありますが、ちょっと息苦しくなっちゃいました」

「俺も似たような感じだな。確かゆっくり鼻で息するのがいいんだったか?」

「なるほど……。じゃあ次はそんな感じで」


 そう言うと再び目を閉じて、唇をほんのりと突き出す雛。


 ……まったく、このどこまでも可愛らしい恋人さんは分かっているのだろうか。

 そうやって当然のようにを求められることが、どれほど嬉しいことなのかを。


 二度目のキスを望む雛の姿に軽く笑い、優人はまた雛の唇を奪った。

 今度は雛にも伝えた息遣いに気を付けながら、より長く、感触を味わうための口付け。

 普段から潤いに溢れる雛の唇は一度目のキスで瑞々しい熱を持ち、ついばむように唇でめば、しっとりとした柔らかさを優人へ返してくれる。


 それよりは劣るであろう自分の唇は雛にとって気持ちいいのかと心配になったが、幸い不快に思われることはないらしい。お返しとばかりに優人の動きを真似てキスを続ける雛に、くすぐったさと愛おしさが込み上げた。


 口付けだけでは伝えきれない深い愛情を、雛の頭を優しく撫でることで彼女へと。

 キスの合間に漏れる吐息に喜びの色を混ぜながら、雛はすっかり優人の腕の中にその身を預けていた。


 優人が薄く目を開ける。少しだけ遅れて雛も開ける。


 絡まるお互いの視線が何を訴えているかは明白だったから、二人は今しばらく、底抜けに甘い一時ひとときの触れ合いを続けるのだった。

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