第125話『頑張り屋さんとお泊まり』
今夜の夕食はさすがに優人が担当した。
雛には旅の疲れというものがあるだろうし、彼女からのいきなりの誘いに沸騰しそうな頭を落ち着かせる意味でも何かやることが欲しかった。
幸い買い出しに行かずとも二人分の食材はあったので、雛が一度自宅に引っ込んでお泊まりの用意を整えてくる間に炒飯の作成に移る。それを完成させてインスタントのたまごスープを添えれば食卓も整い、準備を終えて部屋にやって来た雛と夕食を共にした。
そして、現在。
浴室の方から届くシャワーの音にそこはかとなく鼓膜と心臓を揺さぶられながら、優人は胡座をかいてソファに座っていた。
半ば座禅のような体勢になっているのはくぐもったシャワーの音がやけに生々しく聞こえるからだ。似たような状況は以前にも経験したことがあるというのに。
そういえばあれから半年ぐらいは経ったんだな、なんてこれまでの思い出を振り返りつつ、ぐっと一度大きく背筋を伸ばす。
先に入浴を勧めた雛には「ゆっくり入ってこい」と伝えてあるので、しばらくは一人で気持ちを落ち着けることができる。
息を吸って、吐いて、繰り返すようにもう二回。ある程度の平静を取り戻せたところで、優人は組んだ両手を額に当てて上半身を少し前に倒した。
部屋の照明が遮られて薄暗くなった視界の中、目を閉じれば瞼の裏側に浮かび上がるのは、今夜を共にする恋人の姿ばかりだ。
(……
恋人として一晩中一緒にいることになったとはいえ、さすがに身体の深いところでの繋がりを求めるつもりはない。
へたれだの意気地無しだの言われたら甘んじて受け入れるしかないが、事を進めるにはあまりにも準備が足りないからだ。
心構え的な意味はもちろん、万が一が起きないために必要な品物の用意的にも。
第一、頬や額へのソフトなものならいざ知らず、唇同士のキスすら未達成なのが優人たちの現状だ。
そんなはっきり言って
雛だってその辺りの考えは同じはずだ。
現に先ほどお泊まりを言い出した直後も、面を喰らって硬直した優人を見て、「そ、そういう、誘ってるとかでなく、単純に一緒にいたいってだけで……!」と視線をあっちこっちに飛ばしながら慌てて訂正していた。
勘違いさせるような発言をしたことにも謝罪を貰ったわけだし、今夜は雛の希望通り、純粋に同じ空間や時間を共有することを念頭に置こう。隣にいて欲しいと思ったのは優人も同じなのだから。
……とはいえ、だったら今もなお身体の内で
「男女の付き合いって大変だなあ……」
俯いたまま、口の中に留まる程度のほんの微かな声量で呟く。
優人も雛も未経験故にお互い探り探りだからというのはあるだろうけれど、改めて恋人関係を深めることの難度の高さを思い知る。
まあ嬉しい悲鳴というやつだし、本気で好きな相手だからこそ真剣になるのだ。
自分はきっと贅沢な悩みを抱えているのだろうと軽く笑い、いつまでもこうしていても仕方ないと気を紛らわせるためにテレビのリモコンに手を伸ばす。
ソファには普通に座り直してバラエティ番組でも眺めていれば時間が経ち、浴室の扉が開かれる音が。それからまたしばらくして洗面所兼脱衣所の引き戸が開くと、風呂上がりの雛がリビングへと姿を現した。
「お風呂、先に頂きました。ありがとうございます」
律儀にそうお礼を口にした雛の身を包むのは、いつかのお花見の日に購入した淡いブルーのパジャマだった。
光沢のあるシルク素材の、半袖のシャツとショートパンツの上下セット。
通気性に優れるが故の薄手の生地は、女性を香らせる雛の身体の起伏を際立たせ、何よりショートパンツの裾から伸びるしなやかな太ももの白さが眩しい。
入浴時にコンタクトを外したらしい眼鏡モードの雛が火照った頬をタオルで拭うと、その拍子に艶めいた群青色の糸が静かに舞う。この距離でもシャンプーの良い香りが鼻先をくすぐる気がした。
「どうでしょうか? 買ってからもう何度か着てるんですけど……」
シャツの裾を指先で小さく摘みながらの問いかけは、もちろんパジャマを着た自分はどうかという意味合いだろう。
「……可愛いと思うぞ。色も雛のイメージっぽくて、よく似合ってる」
「えへへ、優人さんが選んでくれましたもんね」
そう、そういう経緯で購入されたパジャマだったからこそより一層彼女に似合ってると思う。
嬉しそうに表情を綻ばせた雛が優人の隣に座る。さらに間近で着用した姿を目の当たりにしてみると、少々刺激が強い。
そもそも、風呂上がりでほんのり赤みを帯びた素肌という時点でどこか艶めかしさがあるのに、シャツの下襟の開きが広いせいで綺麗なデコルテ回りの素肌が露わになっている。
優人の方が座高が高い関係上自然と雛のことを見下ろす形になり、緩い胸元から微かに覗く膨らみはあまりにも目に毒だった。すぐに視線を逸らしたから一瞬ではあっただが、パジャマとは違う桃色の布地を垣間見た気がする。
ひっそりと優人が生唾を飲み込む中、ヘアブラシで髪を梳く雛。
手入れの最後の仕上げだったのかそれもすぐに終わり、優人の目の前にキューティクルばっちりの髪が完成した。
「どうかしました?」
「雛の髪、また少し伸びたかなって思ってさ。綺麗だ」
「ふふ、毎日お手入れ頑張ってます」
横髪を一房手に取ると、驚くほど滑らかな指通りが返ってくる。
つい手を伸ばしてしまったものの、よく考えてみればせっかく手入れを終えたばかりの髪を触るのは不躾だったかもしれない。
そう思って優人が手を引っ込めようとすれば、逆に雛の方から頭を傾けてくる。
もっと触ってと訴えるように。
「優人さんに触ってもらうの、気持ちいいです」
「そりゃ光栄だな」
雛の努力の結晶にこうして触れることを望まれるなんて身に余るほどの幸福だ。
ゆっくりゆっくりと、慈しみの気持ちを最大限に込めながら髪と、ついでに頭も撫でる。
感触に浸るように瞳を細め、口元を穏やかな微笑みで彩る雛は目を奪われるほどに美しい。
さらさらの感触に絵画のような光景、それからいつもより甘さの濃ゆい匂いを堪能していると、不意に雛が顔を上げた。
「今日はお迎えに来てくれてありがとうございました」
「どうした急に」
「ちゃんとお礼を言ってませんでしたからね。心配してくれて嬉しかったです」
「どういたしまして。まあ、雛と一緒にいた子からは冷やかされちゃったけどな」
「いいんですよそんなこと。むしろ、もっと自慢したいぐらいですもん。私の恋人はこんな素敵な人なんですって」
「……雛からそう言ってもらえると、自信が持てるな」
「ええ、どんと胸を張ってください。――優人さんは、とても素敵な、私の恋人です」
恥ずかしそうに頬を淡く染めつつ、けれど目は逸らさずにはっきりと告げられた。
優人へ向けられる金糸雀色の瞳は、その奥に込められた感情がありありと伝わるほど透き通っている。
優人への信頼と、愛情。
飽くなき想いを注がれる相手が自分であることが、たまらなく嬉しい。
「雛……今、何考えてる?」
「……きっと、優人さんと同じですよ」
「そっか」
「はい」
雛の手が優人へと伸びる。求めるように、焦がれるように。
「――キス、したいです」
柔らかな指でなぞられたのは、唇だった。
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