第3章

第114話『恋人として迎える朝』

 デートから一夜明けた月曜日の朝、視線を持ち上げた先に広がるのは昨日に引き続きの快晴だ。爽やかな朝の日差しが降り注ぐ透き通った空と点々と浮かぶ雲。青と白のコントラストは素晴らしく、見ているだけで空模様と同様に気分が晴れやかになってくる。


 自分と彼女の新しい関係の門出かどでを祝福してくれるみたいだ、というのはさすがに浮ついた考えだろうか。

 自然と上向きになる口角を指で解しながら、天見あまみ優人ゆうとは自宅のアパートの玄関前で小さな笑いを噛み殺した。


 さて、そろそろ頃合いのはずだ。

 優人は廊下の柵に寄りかかっていた姿勢を正し、首に巻いたネクタイをあえて・・・乱しておく。

 そうして自分の部屋の一つ隣へ目を向けると、まるで期待に応えるようにそこの玄関が開き、優人にとって誰よりも愛らしい一人の少女――空森そらもりひなが姿を現した。


「おはようございます、優人さん」


 肩口まで伸びた群青色の髪を揺らしながら、雛が一日の始まりを告げる挨拶を述べる。ふわりと柔らかく緩む金糸雀かなりあ色の瞳を見つめながら「おはよう」と返せば、端整な顔立ちを彩る微笑みはさらに深みを増した。


 朝からこの可愛らしい笑顔を拝むことができる。それだけでなんて幸福だろう。

 魅力たっぷりな恋人の存在を優人がしみじみと噛み締めている間、当の雛は抜かりなく玄関の鍵をかけている。

 それを終えた雛が改めて優人に向き直ると、血色の良い白さに溢れた頬がほんのりとりんご色に染まり、何かを窺うような上目遣いが優人を見つめた。


「どうでしょうか?」


 主語こそ省かれていたが、制服のスカートの裾を指先で摘む雛の姿で、何を指しての質問なのかはすぐに分かった。

 暦は六月に移り、往々にしてこの時期は衣替えのシーズン。優人たちの通う高校も六月上旬を目処に切り替えを行うので、雛の華奢な身体を包んでいる制服は夏服だ。


 シンプルな半袖の白ブラウスに、優人のネクタイとは色違いの赤いリボン。

 枚数が減り、さらに生地が薄くなった分どことなく主張が増した気のする胸元の起伏を通り過ぎれば、きゅっと引き締まった腰回りから下をチェック柄のスカートが覆っている。

 過度にならない程度に長さを短くしたスカートの下は相変わらずのタイツであり、すらりと伸びた両足をぴっちりと張り付く黒色が包んでいた。


 優等生としての着こなしでありながらも可愛らしく見えるのは、一重に雛自身から溢れ出る魅力によるものに違いない。


「うーん……雛って何着ても似合うよな」

「褒め言葉なのでもちろん嬉しいですけど、聞きようによっては何でもいいと言われてるみたいでちょっと複雑ですね」

「手厳しいなあ。――よく似合ってて、たいへん可愛らしいです」

「えへへ、ありがとうございます」


 特別凝った褒め言葉でもなかったけれど、雛が浮かべる表情はご満悦。

 自分の送った言葉で喜んでくれるのが嬉しい一方で、こうなると自分の評価も気になってくるところだ。


「俺はどうだ?」

「優人さんも似合っててカッコいい、と言いたいところですけど」


 全体像を眺めた後、優人の首回りを見つめてやれやれと呆れたように肩を落とす雛。


「ネクタイが緩んでますよ、まったくもう」


 そう言った雛は優人に近付き、首元へと手を伸ばしてネクタイを整えてくれる。

 正直言うと、こうして雛に整えてもらうのがちょっと癖になっているのだ。ふわりと花のような甘い香りが漂う中、目論見が成功したことに優人はほくそ笑む。


 が、この至近距離でそれは失敗だった。


「不思議ですよねえ。優人さんって基本的にしっかりしてるのに、たまにこうして抜けてるところが――」


 甲斐甲斐しくネクタイを整えていた雛の手がピタッと止まり、胡乱げな眼差しが優人を見上げる。しばしじーっと見つめられた後、雛の目はすう……と細く研ぎ澄まされた。


 優人の背を、一筋の冷や汗が伝い落ちる。


「ねえ優人さん」

「はい」

「もしかしてこれ、わざとやってませんか?」

「……さあ、何のことでしょう」

「有罪ですね」

「ちょ、雛、悪かったギブ、ギブギブ……!」


 ちょうどネクタイを締める瞬間だったのが災いし、ぎゅうっとかなり強い力で締め付けられてしまう。雛の腕をタップすればすぐに力こそ緩められたが、優人を見つめる目は依然険しいままだ。


「人の親切心を利用するのは感心できる行為ではありませんねえ。恋人だからと言って、何でもかんでも甘やかすと思ったら大間違いですよー?」

「……はい、仰るとおりです」

「反省しましたか?」

「山よりも高く、海よりも深く反省しました」

「よろしい。許して差し上げましょう」

「ははー」


 朝っぱらから何をやっているのだろうか。コントめいたやり取りを繰り広げた後、何だかんだ言いつつも最後はきっちり丁寧にネクタイを整えた雛は、優人の胸に身を寄せる。


「素直に言ってくだされば、毎朝私が締めてもいいんですよ?」


 つん、と細い指で頬を押された。向けられる笑みは悪戯っぽさを含んだ愛らしいもので、誘うような柔らかい声音と合わさって優人の心臓を責め立てた。


「……考えとくよ」

「はい、お待ちしてます」

「ったく……。それにしてもよく見抜いたもんだ」

「それだけ優人さんのことを見てますもん。私に隠し事をする時は気を付けた方がいいと思います」

「うーわ、勘弁して欲しい」


 寄り添いながらしばし笑い合いうと、優人は雛の手を優しく握る。


「行くか」

「はいっ!」


 一手間かけさせてしまった分のお礼代わりにはなっただろうか。

 はにかむ雛と共に、優人は朝の通学路へと踏み出した。

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