第112話『私をあなたの』

「――好きだ」


 紡いだ言葉はたったの三文字。その言葉を言い切るのには一秒も要さず、ともすれば聞き逃されしまってもおかしくないほど短いものだった。

 けれど、優人の目の前で今、ゆっくりと大きく開かれていく金糸雀かなりあ色の瞳が確かに彼女へ届いたことを教えてくれる。


 薄暗い観覧車の中に差し込む光は月明かりだけ。それでもはっきりと分かる、吸い込まれそうなほどに綺麗な瞳の輝きを見つめて、もう一度。


「俺は、雛のことが好きだ」


 今度は少し長く、誰が誰をなのか、きちんと言葉にした。


「一人の女の子として、空森雛のことが好きなんだ」


 人間ひととしての尊敬ではない。そういった気持ちもあるけれど、それ以上に優人の身と心を焦がしどこまでも昂らせていくのは、紛れもない恋情だ。

 こんなにも彼女を好きになったのは一体いつからだろうか。全てがスローモーションに映る世界で、ふとそんなことを振り返る。


 偶然に偶然が重なって始まった雛との関係は、後輩でお隣さん。

 別にそれ以上を望むつもりなんてなかったし、なれるとも思ってなかった。だから時々彼女を気にかけたのだって、何となく放っておけなかっただけの話だ。


 けれど、いつしかそれに『恋』という好意が混ざるようになっていた。明確なきっかけがあったわけじゃないから、いつからかなんて自分でも本当に分からない。優人の中にある器に少しずつおもいが溜まっていき、やがて溢れ出した頃に自覚した。


 自覚してからは何かにつけて雛のことを考え、目で追いかけることが増えた。

 何となく放っておけなかったからではなく、好きだから。

 いつも真面目で、頑張り屋で、だからこそ時に壊れそうに儚く思える彼女を、他でもない自分が支えてやりたいと強く思うぐらいに。


「…………」


 雛は口元を両手で隠し、顔を俯かせる。彼女が今どんな表情をしているか、どんな答えが返ってくるか優人には分からない。

 周りの音が根こそぎ遠ざかったように感じる深い静寂の中、自分の心臓の鼓動だけが嫌にはっきりと意識に届く。


 早い。たぶん今までの人生の中で一番早い。暴れ回る心臓は血流も同時に早め、優人の身体全体が内側から炙られるように熱を帯びてくる。

 自分は今、どんな顔で雛の返事を待っているのか。普段でさえ鋭い目つきが余計険しくなって雛を怖がらせてはいないだろうか。


 そうして急速に膨れ上がっていく不安を止めたのは――堪え切れないといった風にこぼれた、誰かの笑い声だった。


「雛……?」

「私、今日はずっと、期待してたんですよ」


 戸惑いを覚えた優人が呼びかける中、雛は顔を俯かせたまま語り始める。


「わざわざデートして欲しいなんて言われたんですから……普通に考えて、もしかしてって思っちゃうじゃないですか。それで頑張っておめかししたら、優人さんもすごくカッコいい姿で来てくれて、余計に期待が膨らんじゃって……っ」

「……ああ」

「だから今日はずっと期待して……想像してたんですよ。もし優人さんからそう言われたら、こう返事しよう、こんな風に受け止めようって。なのに――」


 雛がようやく顔を上げる。彼女の瞳から伝うのはまるで宝石のように煌めく透明感のあるしずく

 それが涙だと理解するよりも早く、口元を隠していた手を雛が下ろし、今の彼女の嘘偽りのない素顔が優人の目に晒される。


 溢れ出る雫でいっぱいの瞳も、白い頬を染める鮮やかな薔薇色も、三日月よりも美しい弧を描く口元も、丸ごとすべて。

 それらが形作るのは、


「なのに、なのに、何なんですかもうっ。嬉しすぎてぜんぶ頭から吹き飛んじゃいましたよぉ……っ!」


 どこまでも綺麗な、泣き笑いのような笑顔だった。

 優人はただ無意識に目の前の少女へと手を伸ばす。何か考えを巡らせわけではなく、未だなお瞳から伝い落ちる涙を拭おうと。

 雛の頬にそっと手の平を当てて、彼女の目元を親指で優しく拭き取る。最初はくすぐったそうに目を細めた雛もすぐにその手つきを受け入れ、心地良さそうに首を傾けた。


 やがて優人の手の甲に自分の手を重ねると、優人の目を真っ直ぐに見つめ、形の良い唇が開かれる。


「天見優人さん、私もあなたが大好きです。だから私と、お付き合いしてください」

「――っ」


 柔らかな笑顔でそう告げられた。

 待ち望んでいた答えが、最高の答えが返ってきたのに言葉が出てこない。雛の言葉を借りるなら、嬉しすぎて頭から吹き飛んだみたいに。

 それでも歓喜で震えそうな声で「もちろん」とだけは何とか絞り出すと、雛はより一層とろけたような笑顔で迎え入れた。


 幸せという感情をこれでもかと詰め込んだその微笑みはきっと鏡合わせだ。雛ほど魅力的とは言えないだろうけど、優人も同じような顔をしているはずだ。

 そう確信できてしまうほど、お互いの想いが最高の形で繋がったことが幸福でたまらない。


「優人さん」


 甘い声音で雛から呼ばれ、視界の焦点が彼女だけに絞られる。

 想いを伝え、受け入れられ、優人と雛の関係は一つのゴールを迎えた。それなのに雛から離れることができず、甘い花の蜜に誘われるように優人は身体を前へ出す。


 距離が近付き、雛が少しだけ顎を前に突き出す。もう少し近付けばお互いの息遣いすら混ざり合いそうで、雛はふやけたように緩まった瞳をまぶたで覆い隠した。


(……いいってことなんだよな?)


 告白してすぐなんて急ぎ過ぎやしないかと思うけれど、恋人となった以上は何らおかしくなはい。それ以前に、うように差し出された潤いのある唇から意識を逸らすことができず、優人も静かに目を閉じ――


『運転を再開します。ご注意ください』


 そんなアナウンスと鳴り響くブザー音。現実に引き戻された優人と雛が同時に飛び退く中、観覧車はゆっくりと運転を再開し始める。


『…………』


 ギリギリだ。ギリギリでまだ触れ合ってなかったと思うが、さすがに面と向かって確認なんて出来やしない。確認すること自体がみっともなく感じるのもあるし、ちょっと今は、雛の方を見れそうになかった。

 ただ、一瞬だけちらりと見た雛は真っ赤な顔でぷるぷる震えていたと思う。


「あの、優人さん」

「……どうした?」

「……お隣、座ってもいいですか?」


 直前にやろうとした行為に比べればなんと微笑ましいお願いだろう。

 けど、たぶんこれが今の自分たちの限界だ。

 恋人になったからと言ってままならない現実に苦笑を浮かべ、優人は「ああ」と自分のそばをぽんと叩いた。


 おずおずと座った雛と肩を寄せ合い、手を絡める。

 唇はまだ無理でも、この手の中に温もりだけは離さないと、そう心に誓った。

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