第111話『最後の場所へ』

「んー! 遊びましたねえ」


 空へと大きく手を伸ばし、ご満悦な表情で背筋を反らす雛。その体勢故に自然と強調される胸の起伏につい目が奪われそうになるが、せめて一瞬で留めて優人は「だな」と同意を返す。

 雛の両手の先に広がる空はダークブルー。展望スペースにて見舞われた通り雨はその名の如く綺麗さっぱり通り過ぎ、今は少し雲に隠れているが月も見え始めていた。もう少し時間が経って夜の闇が濃くなれば、見事な月夜を拝めることだろう。


 これから向かう算段を立てている最後の場所へはひとまず障害が無さそうなことに胸を撫で下ろしつつ、優人は今日のこれまでを振り返る。

 色々とハプニングや失敗もあったけれど、本当に楽しい時間を過ごすことができたと自信を持って断言できた。


 展望スペースを後にしてからは正直エスコートという感じでもなくなっていた。基本的には優人が先導する形ではあったけれど、ふと目についたものや興味を引かれたお店に何気なく立ち寄る。

 時には雛が、そして時には優人が、意見わがままを言い合って自然体でいられた。そんな風にあれたのも、展望スペースで雛が投げかけてくれた言葉のおかげだ。


「さてと……そろそろ帰る感じでしょうか?」


 腕を下ろし、少しだけ眉尻を下げながら尋ねる雛。まるで遊園地から帰るきわになった幼い子供のような、寂しさを織り交ぜたような表情に不覚にも胸が高鳴ってしまう。だってそれだけ、帰るのが惜しいと思ってくれているのだから。


 時間としては帰るにいい頃合いかもしれないが、今日はまだ付き合ってほしいところがある。

 早くなる心臓の鼓動を密かに鎮めながら、優人はおもむろに口を開いた。


「実はもう一つだけ付き合ってほしいところがあるんだ。ちょっと移動することになるんだけど……大丈夫か?」

「はい、もちろん」


 返ってきたのはノータイムの短い承諾。ちょっとしたサプライズのつもりだから向かう場所はあえて伏せたというのに、何の疑問も挟もうとしない雛の信頼が何よりも嬉しい。

 そうして小さな笑みをこぼした優人は、雛を連れてその場所へと歩き出した。







 電車で一駅と十分ほどの徒歩。その道のりの途中、遠目からでも分かる巨大な建造物を見据えて雛はぽつりと名称を呟く。


「観覧車、ですか?」

「ああ」


 深さを増した夜の中、訪れる人々を歓迎するように七色でライトアップされた大きな観覧車。それこそが今日のデートを締めくくる最後の場所だった。


「へえ、遊園地の中でもないのにあるものなんですね」

「探せば色々とあるもんだぞ?」


 なんて得意気に語るものの、優人だって特別詳しいわけじゃない。事前に調べたから知っているだけの話だ。

 観覧車を眺めて「壮観ですね」と呟く雛に相槌を打ちつつ、観覧車の根本まで近付いていく。

 一周約十五分という立派な大きさなだけに無料とはいかず、利用するためには別途でチケットを購入しなければならない。タッチパネル式の券売機に近付くや否や財布を取り出そうとする雛を手で制し、優人は『おとな二人』のボタンをタップする。


「ここは俺が払うよ」

「む、またそういうことを」

「頼むよ、ここは俺に払わせてくれ」

「……分かりました」


 ここへ連れてきたことも、そしてこれから行おうとしていることも、突き詰めれば優人のエゴでしかない。それに付き合わせている以上これだけは譲れずに強い意志を見せると、察してくれた雛は戸惑いつつも引き下がってくれた。

 手早くチケットを購入し、入場ゲートを通り抜けて観覧車へ続く列に二人で並ぶ。時間帯もあってそれなりに混雑しているが、雛と一緒なら待ち時間でさえもどこか心地良さを感じる。


 そうしてもうじき自分たちの番になるかという頃、雛が微妙にそわそわと肩を揺らしていることに優人は気付いた。


「どうした?」

「い、いえ、特には」

「……もしかして高所恐怖症とかあったりする?」


 気負いこそなくなったとはいえ、今日の優人は明らかに行動が空回りする節がある。まさかと思って浮かび上がる可能性を恐る恐る口にすると、雛は慌てて首を左右に振った。


「そういうわけじゃありません。ただ観覧車って初めてなので、ちょっと緊張するというか、何というか……」

「ああ、なるほど」


 よくよく考えれば展望スペースには問題なく行けたのだから、高い所に特別苦手意識があるわけではないのだろう。

 と言っても、目の前の観覧車だって地上百メートルを越える申し分ない高さを誇る上、ゴンドラに乗り込めば状態的には宙吊りに近いようなものだ。雛は初めてだし、独特の緊張を覚えてもおかしくはない。


「次の方どうぞ」


 優人たちの番が到来し、係員が笑顔でゴンドラへの搭乗を促す。

 先に乗り込んだ優人はその場ですぐに振り返ると、未だおっかなびっくりな様子の雛へと手を差し出した。


「ほら、雛」


 お城へ向かう馬車へ、麗しいお姫様を誘う王子のように――なんて素敵な振る舞いとまではお世辞にも言えないけど、理想としてはそんなイメージで。

 さすがに気障きざすぎる考えだったか。きょとんとした金糸雀色の瞳に見つめられ、背筋にさっと冷たいものが走る。

 しかしその膠着も一瞬の内に終わり、ふんわりと目尻を下げた雛は優人の手を取った。


「お願いします」


 そう言ってぎゅっと手に力を入れた雛をゆっくりとゴンドラの中へ招き入れる。「ごゆっくりー」という係員のやけに和やかな声を最後に外側から施錠され、約十五分間の空の旅が始まりを迎えた。

 ひとまず雛を座らせた後、優人もその対面へと腰を下ろす。雛は空いている座席に荷物を置くと、ゴンドラの窓に額と手の平を当てて早くも外の景色を眺めていた。


「さすがにまだ大した景色じゃないだろ」

「ええ。でも、どんどん上がっていくのを見るのも何だか楽しいです」


 雛が搭乗前に抱えていたことは幸い杞憂で済んだらしい。

 わくわくと童心に返ったような笑みで彩られた雛の横顔を見つめながら、優人も静かに外を眺める。


 たまに少し会話を交えつつ、五分ほどは過ぎただろうか。その頃にはゴンドラも十分な高さまで上がり、周囲の建物に邪魔されずに景色を一望することができるまでになっていた。


「あ、あれ今日遊んだところじゃないですか?」


 遠くの道路に並ぶ車のライトを何気なく目で追っていると、少し興奮したような声が優人の耳を叩いた。

 雛が指す先には確かに今日遊んだ高層ビルが佇んでいる。あちらもすでにライトアップされており、ここからならその全体像と明るさを余すことなく見物することができた。


「今日はたくさん遊びましたね」


 目を細めて振り返る雛に優人は「ああ」と頷く。


「いきなり出鼻を挫かれるとは思わなかったけどなあ」

「あれは予想外ですよねえ。あの時の優人さん、一瞬ですけど泣きそうな顔してましたよ?」

「泣きたくもなるわ。テーマパークのこと結構色々調べたんだぞ」

「ふふ、ありがとうございます。それについては残念ですけど、ゲームセンターも面白かったです。優人さんに勝てましたし」

「まさか雛があそこまで手強いとはな。意外だった」

「意外と言うなら優人さんもですよ。クレーンゲームであんなにムキになる優人さんは初めて見ました」

「……その節は、ほんと悪かった。できれば忘れてもらえるとありがたい」

「えー、こうして形に残っている以上は難しいですねえ」


 ライオンのぬいぐるみが入ったビニール袋を一瞥し、意地悪く微笑む雛。


「はいはい、そうですか。ならその分大事にしてほしいがおー」

「……優人さんこそそれ忘れてくれません?」

「お断りだがおー」

「あ、また言った!」


 それこそ『がおー!』と吠えてきそうな雛を宥めつつ、優人はひとしきり笑う。あの気遣いには本当に心が救われたのだから、忘れろと言われても土台無理な話だ。


「ま、観覧車にはこうして無事に乗れて良かったよ。これにこそ乗れなかったら泣くわマジで」

「あはは、さすがにもうトラブルは――」


 雛がそう言い切ろうとした瞬間、そこはかとなく異質な振動でゴンドラ内が揺れる。


『…………』


 ゆっくりとはいえ着実に進んでいた観覧車が静止し、それが伝染したように固まって見つめ合う優人と雛。口を閉ざしたままだが、お互いに何を考えているかは嫌でも分かる。

 まさか、ひょっとして、ここでもまた。

 そんなフレーズばかりがぐるぐると脳内を回っていると、観覧車の放送設備からアナウンスが入る。


『ご搭乗中のお客様へお知らせします。ただいま安全確認のため、観覧車を緊急停止しております。確認が取れ次第運転を再開しますので、今しばらくそのままでお待ちください。繰り返しお伝えします。ただいま――』

「勘弁してくれよマジで……」


 がっくりと頭を垂れる優人。

 ここまでくるといっそ笑いたくなる。浮かぶ笑みは力無く渇いたものだけれど。

 どうやら深刻な問題というわけではなく、復旧はすぐにされるみたいだが、最後まで不運に見舞われる今日の自分の運の無さにはほとほと嫌気が差してしまう。優人が一体何をしたというのか。


「厄日か今日は……」

「――いえ、案外そうでもないと思いますよ」

「え?」


 思いの外楽しそうな雛の声に引かれ、優人は顔を上げる。

 ほら、と優しい声音に促されて視線を向けた先、そこに広がっていたのは――何一つとして遮るものがない、どこまでも続いていくような広大な夜景だ。


頂上・・で止まれるなんて、むしろラッキーじゃないですか」


 気付いてみればそうだった。

 雛が口にした通り、優人たちの乗るゴンドラが停止した位置は観覧車のちょうど半分に達した地点、まさしく頂上と呼ばれる場所だった。


「すごく綺麗ですね」

「……ああ、綺麗だ」


 同じ言葉でも、向けた対象はきっと違う。

 雛は広がる夜景に。

 そして優人は、そばにいる彼女に。


 まるで今日の不運全ては、今この瞬間を手にするために必要なことだったかのように思えた。

 何人の目に触れず、誰の邪魔も入ることのない、二人だけの空間。

 決してそれに背中を押されたわけではない。たとえこんなお膳立てされずとも伝えようと決めていた。


 けれど、


「雛」


 抱えていた想いが溢れ出すのを、もう止められない。

 振り向く彼女へ届けるため、優人は確かな言葉かたちとしてそれを紡ぐ。


「――好きだ」

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