第110話『がおー』
「はあ……」
腹の底から絞り出しようなため息は果たして何度目か。数えるのも億劫なので早々に思考を放棄し、優人は代わりにもう一度ため息を吐き出す。
ゲームセンターから時間も場所も移り、今いるのは高層ビルの上階にある屋外展望スペースだ。設置された花壇には日頃から丁寧に手入れされた花々が咲いており、その場の雰囲気は全体的に華やか。転落防止の高く強固な柵で囲まれているとはいえ眺めもよく、広がる景色は爽快感溢れるものだ。
というのがホームページにも載っていた紹介文なのだが、実際がどうかと言えば――
「通り雨って……」
まるで親の
視線の先に立ちこめた雲から絶え間なく落ちてくる透明な滴。土砂降りとは言わないが無視できるほどの雨量でもなく、日除け兼雨除けの屋根で覆われた背もたれのないタイプのベンチに座る優人は、後ろに手を突いて斜め上の空を仰いだ。
展望スペースに到着してすぐにこの有様、これではせっかくの良い景色も半減だ。
朝から快晴だったというのに何でまた。
リアルタイムの雨雲レーダーによるとまさしく通り雨らしいのでそう時間もかからない内に止むみたいだが、どうしたってタイミングの悪さに辟易としてしまう。
雛がお手洗いに行ってこの場にいないのをいいことに、優人はまた一つ、長く重苦しいため息をついた。
「あーもー……」
何だか今日は、いまいち格好がつけられない。
最悪のタイミングで雛を展望スペースに連れてきてしまったこともそうだし、直前のゲームセンターでもそう。
――結局、ぬいぐるみは取ってあげられなかった。
いや、正確に言うとぬいぐるみ自体は取れたのだけど、雛が欲しがった狼とは別のものが取れてしまったのだ。
本当に惜しいところまではいけたのに最後はアームから狼がこぼれてしまい、その時の衝撃に押し出される形で、すぐ近くにあった別のぬいぐるみが取り出し口に落ちてきた。
一回り小さいライオンのぬいぐるみ。
それでも雛は笑顔で喜んでくれたし、「ずっと大事にします」と力強く約束もしてくれた。その表情と言葉に嘘は無かったと思うけれど、彼女が一番望むものを勝ち取れなかったことは優人にとって強い心残りとなった。もしかしたら、むきになった姿を見せて内心呆れられてしまったかもしれない。
覚悟を決めて雛をデートに誘い、エスコートすると約束しておきながらこの体たらく。男としての自分の格を突きつけられてるみたいで嫌になる。
……こんなんじゃダメだ。少なくとも今日のデートを終えるまでは、気持ちを強く保たないと――。
「優人さん」
「おわっ!?」
急に頬にひやりと冷たい感触を押し当てられ、情けない声と一緒に首が竦む。振り返ればいつの間にか雛が背後に立っていて、手にしたプラスチックのカップを優人へ差し出していた。
蓋にストローが刺さったカップは鮮やかなオレンジの液体で満たされている。
「お待たせしてすみません。飲み物を買ってきたので、少し休憩しましょうか」
「ああ、ありがとう。いくら――」
「これは私の奢りです。嫌とは言わせませんよ?」
「……はい」
頷く他なかった。大人しくカップを受け取ると、優人の隣に腰を下ろした雛が自分のカップのストローに口を付ける。
色合い的にフルーツジュースか何かだろうか。その予想は正解であり、雛の後に続いて優人もストローに口を付けて吸い上げると、オレンジの爽やかな味が喉元を撫でていった。
製菓などで使う砂糖とはどこか違う、優しく自然な甘みだ。
「美味いな、これ」
「ですね。新鮮さを
雛と二人、しばしジュースの甘さに浸る。しとしとと降り続ける雨の音も、こうなってくるとほど良い環境音に思えた。
「……落ち着きましたか?」
「え?」
ジュースの残りが三分の一程度になった頃、隣からそっと投げかけられた問いに優人は口を半開きにする。
視線を向ければ静かに優人を見つめる雛と目が合い、気遣うような色を宿した金糸雀色の瞳の下で、小さな唇がほんの少しの尖りを見せた。
「優人さん、今日は時々、すごく考え込んでる時がありますから」
「……それは」
「分かってます。私をエスコートしてくれようと、楽しませてくれようとしてるんだって。だから、それが悪いとかそういう話ではありません」
そう言って雛はジュースのカップを脇に置き、ふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
「優人さんがそうやって私のために考えてくれること、本当に嬉しいです。おかげで今日はずっと楽しいですし、素敵なプレゼントまで貰えました」
ゲームセンターのロゴが入ったビニール袋から、雛はライオンのぬいぐるみを取り出す。百獣の王をモチーフにした割にずいぶんと可愛らしくデフォルメされたそれは、雛の腕に抱かれて少し窮屈そうに首を傾ける。
「ハプニングがあっても、失敗があっても、そんなのちっとも関係ありません。そういうのひっくるめて、全部楽しいんですよ」
じんわりと、心の奥に沁み渡るような言葉だった。さっきまでの暗い気持ちが嘘のように晴れていき、いつからか強ばっていた肩の力が抜けていくようだった。
「だから」と、そう続けて雛が優人を見つめる。そして抱いていたライオンの片足を手に取ったかと思えば、肉球の付いた足裏で優人の肩をぽんと叩いた。
「げ、元気出してがおー」
――たぶん、雛もまた色々と考えてくれた上での行動だったのだろう。
落ち込む優人を元気づけるため、精一杯におどけた風の励まし。その気遣いはもちろんありがたく、本来ならすぐに礼の一つでも述べるべきだ。
が、ライオンを真似たというにはツッコミどころがあるその語尾も、自分からやった割に恥ずかしさを捨てきれずにじわじわと色づいていく頬も、色んなものが可愛らしくて微笑ましくて、こみ上げてきたのは感謝の言葉ではなく笑いだった。
「ぷっ、くくっ、くははは……!」
「わ、笑うことないじゃないですかっ」
「いやだって……がおーって、ライオンだからがおーって……!」
「む、むうう……! 優人さんのバカっ」
ぷいっとそっぽを向いてしまう雛。そんな仕草もまた一段と可愛らしく、こみ上げる笑いを口の中で押し留めながら、優人は片手を心優しい彼女の頭にぽんと置く。
「悪い悪い。ありがとな、おかげで元気出たよ」
「……そのまま撫でてくれたら許してあげます」
「はいよ」
エスコートをしようとするあまり、少し肩肘を張りすぎてしまったのかもしれない。それを気付かせてくれた雛の頭を、感謝の念を込めてゆっくりと撫でていく。
雨はもうしばらく止みそうにない。
けれど、それでもいいと今は思えた。
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