第105話『そこは、私だけの場所』
デート当日である日曜日の空模様は見事なまでの快晴に恵まれた。
空を見上げればそこには抜けるような青空が広がっており、優人が今いる都心の駅前には太陽の光が
それを手の甲で拭い、深呼吸を一つ。額のみならず手の平にも汗が滲んでいるのだが、それは決して気温の高さだけが原因でもないだろう。
「……ふう」
緊張しているのは自分でもよく分かっている。
今日は初めてはっきり『デート』と名付けた雛との外出であり、優人にとっては一世一代の勝負の日。今さら緊張してもと思うが気負わずにというのも無理な話で、胸に手を当てると心臓の鼓動が幾分早いペースなのが感じられた。
逸る気持ちを落ち着かせるようにまた一つ深呼吸をし、優人はスマホに表示させたホームページに目を落とす。
今日行く場所はここから十分ほど歩いた先にある高層ビルだ。
多くの企業のオフィスを内包したそこは優に五十階を越えるほど高く、もちろんデートにおすすめな商業施設も数多くある。レストランや各種ショップを始め、映画館や水族館、ゲームセンター、果ては屋内テーマパーク等々、一日では到底回り切れないほどの物量だ。
ともすれば何から手を付ければいいか迷いそうになるが、その辺りの下調べは優人が事前に済ませてある。
雛を楽しませるための準備に抜かりはない――……はずだと思いたい。自信を持って言い切るにはまだ経験値が足りない優人であった。
一通りのプランを脳内で再シミュレートした後、優人は駅の改札から流れてくる人波へと目を向ける。
時刻はもうじき十一時に差し掛かる頃合い。何でも雛はデート前に少し寄りたい場所ができたらしく、それならデートの開始は余裕のある時間からに決め、ついでに待ち合わせも現地集合ということした。
隣に住んでるのにわざわざ現地集合というのも可笑しな話だが、これもまたデートらしいと言えばデートらしいだろう。
軽く笑みを浮かべ、じきに来る雛を迎えるために身嗜みの最終確認を行う。
シンプルなパンツにシャツ、それから七分袖のジャケットを加えたカジュアルコーデ。ぶっちゃけネットに転がっていたものをそのまま引っ張ってきた感はあるが、自分と背格好が似てるモデルを選んだので悪くはないはずだ。
髪も入念に整えたし……とどうしたって消えてくれない不安に心中をやきもきさせていると、そんな優人に近付く人影があった。
「すいませーん、ちょっといいですか?」
声の方に「はい?」と振り向けば、そこには私服姿の女性が二人。年齢はたぶん優人より少し上に見えるから女子大生だろうか。
二人の内、片方が優人に近付くとスマホの画面を差し向ける。
「私たちここに行きたいんですけど、いまいち道が分からなくて。教えてもらってもいいですか?」
「ああ、はい」
特に断る理由もないので促されるままにスマホを覗き込む優人だが、少し意外なものを感じている。生来の目つきの悪さが災いしているのか、こうして道を尋ねられた経験にはほぼ覚えがないからだ。
そもそも、ここが地元というわけでもない優人が力になれるのかと危惧していたところだが、幸いなことに道案内はすんなりいきそうだった。
何せ彼女らが行きたい場所はここからそう離れてもなく、道順にも複雑なものはない。
わざわざ訊かなくても簡単に分かりそうなものだけど……と微妙に不可解な感想を抱きつつ、画面上の地図アプリを見ながら口頭で説明を付け足していく。
「だから、まずはこの先の道を真っ直ぐ行って、それから二つ目の交差点を右に。少し歩けばコンビニが見えてくると思うんで、道路を挟んだその向かいですね」
「あー、なるほど。分かりました、ありがとうございます。……あのお、もし良かったら――」
「優人さん!」
女子大生が何かを言いかけた瞬間、背後から飛びかかってきたのは切羽詰まった声と手首への衝撃。急な刺激に驚いて振り返ると、待ち合わせの相手が息を切らせたような様子で優人のすぐそばにいた。
白く小さな手が、ぎゅっと優人の手首を掴んでいる。
「お、おお、雛……どうした?」
「――え? あ、す、すいません、つい……! お待たせしちゃったみたいで、ごめんなさい!」
「いいって、大して待ってないし。そもそもまだ約束の時間前だろ?」
慌てたように優人の手首を放した雛が頭を下げる。
急な掴まれたことには驚いてしまったが、優人の方が先に待ち合わせ場所にいたことで焦らせてしまったのかもしれない。
安心させるように雛の頭をほんの軽く叩き、会話を中断してしまった女子大生らに顔を向ける。
「すいません、何か言いかけてませんでしたか?」
「あ、いえ、何でもないです。失礼しましたー……」
何やらそさくさと、渇いたような笑みを張り付けて去っていく女子大生二人組。やけに足早な歩調に首を捻っていると、二人の背中を見た雛が静かに呟く。
「優人さん、今の人たちは……?」
「ああ、ついさっき道を教えて欲しいって話しかけられてな。教えるってほどのもんでもなかったけど」
「……たぶん、ナンパだったと思います」
「は、俺に? 勘違いじゃないか?」
「勘違いなんかじゃありませんよ。だって、今日の優人さん……カッコいいですもん」
恥じらいを含んだ雛からの賛辞に、一瞬だが優人の思考回路は完全にフリーズした。
その短い硬直の間を狙うように手を伸ばした雛が、今度は優人の手首でなく上着の袖を指で摘む。
くいっと加えられた引っ張る力は、まるで私だけを見てと訴えてくるみたいで――
「今日は私とのデートなんですから、他の
ただでさえフリーズしていた脳が、一転してオーバーヒート直前まで燃え上がる。
好きな相手から『カッコいい』と言ってもらえたことはもちろんのこと、頬を淡く色づかせながらの上目遣いの懇願には凄まじい破壊力があり、心臓が鼓動と血流を否応なしに早めていった。
できることと言えば緩みそうな表情筋を精一杯保つことだけで、それによって作られた優人の歪な真顔に何を感じたのか、雛はずいっとさらに距離を詰めてくる。
「きょ、今日の優人さんはって言いましたけど、別にいつもがカッコよくないってわけじゃありませからね!?」
「分かった、分かったから落ち着いてくれ」
死体蹴りレベルの追撃は勘弁して欲しい。
さっきから慌ててばかりの雛を宥め、近付いた彼女との距離を少しだけ開ける。甘い香りが薄らいだことに寂しさを覚えるが、一旦インターバルでも挟まないと持ちそうになかった。
(っていうか、目移りなんてするかよ……)
しないし、そもそもできない。
改めて目の当たりにした今日の雛は、それこそいつも以上に魅力的な姿だったからだ。
もしかして直前に美容院にでも寄ってきたのだろうか。艶のある群青色の髪はさらさらと風でそよぎ、髪型のアクセントとしてその片側を優人がホワイトデーに送ったヘアピンで留めている。
露わになった形の良い耳はほのかな朱色に染まっており、薄化粧を施したであろう端整な顔立ちを引き立てていた。
服装は薄いブルーのノースリーブワンピースで、腰に巻かれたワンピースと一体型のベルトによって身体の凹凸が際立つ。袖からは華奢でありながらも柔らかさも感じる肩や二の腕が、膝上丈の裾からも流麗な脚線美を描く真っ白な二本の足が伸びている。
そう、真っ白なのだ。スカートの場合はタイツを着用することがほとんどだった雛の、健康的な生足。
彼女にしては珍しい露出の多さであり、それでいて全体の雰囲気が清楚にまとまっているのは、肩から掛けられたレース素材のストールによるものが大きいだろう。
晒された素肌をうっすらと透けて見えさせるのがちょうどいい塩梅だった。
もじもじと所在なさげに向けられる金糸雀色の瞳が何を求めているのか、それが分からないほど優人は愚かではない。
「綺麗だよ、雛」
「――はい、ありがとうございます」
嬉しさをぎゅっと詰め込んだように雛の顔が綻ぶ。
何よりも可愛らしいその笑顔から目が離せず、少しでも記憶に焼き付けようとして見つめ続けてしまう。
――ほらやっぱり、目移りなんてできるわけがなかった。
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