第101話『進めたい関係性』

「君の言う通りだと思うよ」


 諦念にも似た響きを帯びた明の声が、ただ静かにその場を流れる。


「そもそも、私たちが子供を授かれなかった理由は知っているのかな?」

「詳しくは知りません。身体的な理由とまでしか」

「簡単に言うと妻の先天的な身体の問題でね、本人にはどうしようもないことだった。それでも私は妻を愛していたし、妻も事実をありのままに受け入れて前を向いてくれた。……だというのに私たちを、何より妻のことを出来損ないのように蔑む者たちがいたんだ」

「そんな人たちへの言い訳として雛を引き取った、ですよね?」

「ああ。ただ信じてくれとは言わないけど、何もそれだけのために引き取ったわけじゃない。子供を授かれないと分かった時から、何度か養子を取ってみようかという話は妻としていたからね」

「一応信じます。雛も、最初の頃は構ってもらえたって言ってましたから」

「……ありがとう」


 別に礼を言われることじゃない。

 優人が無言を貫く中、明はコーヒーを一口飲んだ。


「彼女の言う通り、最初の頃は家族としてあろうと思ったよ。けれど、私も妻もどうしたって本質的には仕事人間だったらしい。なまじ仕事が成功した結果より忙しくなり、彼女のことを放任するようになることも増えていった。聞き分けのいい子だったから、尚更ね」

「それは――」

「分かってるよ。そうならざるを得なかっただけの話だ」


 わがままを言って反感を持たれると、また捨てられてしまうかもしれない。

 すでに実の両親から捨てられた経験のある雛にとっては、余計にその強迫観念が鎌首をもたげたはず。

 だから、聞き分けの――都合のいい子供という殻で自分を封じ込めるしかなかった。


「本当に、今になってみれば分かるよ。彼女がいつからか努力を重ねて自分を磨くようになった理由も含めて。だが私たちはそれに見向きもせず――それどころかその想いを、最悪な形で利用した」


 瞑目した明はややあってから目を開くと、テーブルの端に置いてある角砂糖の小瓶を手に取った。

 一つ、もう一つとゆっくりコーヒーの中へ落とし、ティースプーンで静かにかき混ぜて溶かす。そうして甘さを足したコーヒーを飲んでも、明の苦々しい表情は何一つ変わらない。


「正直、とても清々したんだよ。彼女が何か一つ結果を出すたび、今まで難癖をつけてきた奴らが面白いぐらいに口を閉ざすのだからね。おかげで仕事やりたいことにも集中できるようになり、全てが上手く回っているかのように思えた。彼女が真に望んでいたものを与えないくせに、生み出す結果だけを当然のように求めてしまった。そして、彼女の限界が来て家を飛び出すその日まで……私たちがどれほど追い詰めていたかに気付きもしなかった」


 優人よりも低い声に震えが混じる。それを逃がすかのように長く息を吐くと、明は力無くこうべを垂らした。


「本当に、すまなかった」

「……俺に謝られても困ります」

「そうだね。……まったくだ」


 そこで一度、会話が完全に途切れた。明は一通りの内心を吐露したのだろう。


 ――本当にすまなかったと、そう悔いているのなら。


 優人は片時も緩めなかった背筋をそれでも正し、明を真っ正面に見据えて口を開く。


「空森さんは、これから先どうするつもりなんですか?」

「……犬や猫を拾ったわけではないんだ。彼女が独り立ちできるまで十分な資金援助はさせてもらうつもりだよ。それぐらいの甲斐性はあるし、せめてもの罪滅ぼしさ」

「それだけですか?」


 非難するわけでもなく、淡々と投げかけた問い。けれど明に張り詰めるような気配を感じた。


「他に何があると?」

「雛との関係を、今からでもやり直したいとは思わないんですか?」

「……思わないね。私たちにそんな資格はないだろうし、今さら彼女に歩み寄ることが許されるとも思えない。これまで通り、現状を維持するのが一番――」

「ならどうして今日、俺を呼んだんですか?」


 伏せられていた明の顔が上がる。


「これまで通り、現状維持でいいと言うのなら、わざわざこんな場を設ける必要はない。俺と話す意味なんてなかったはずだ」

「…………」

「あなた方なりに何かを変えたいと、そのきっかけが欲しいと思ったからじゃないんですか?」

「……言っただろう。仮にそんな気持ちが私たちにあるとしても、許されることではない」

「それを決めるのはあなた方じゃなくて、雛なんじゃないですか?」

「彼女が許してくれると思うのかい?」

「分かりませんよ、それは。俺は雛を支えたいし、その気持ちを分かってやりたいと思うけど、分かってやれるなんて軽々しく口にはできない。大事なことほど、雛本人に訊いてみないと分かりません」


 少なくとも優人は『家族』に恵まれた側の人間だ。そんな自分が雛の境遇や気持ちを真に理解することなんて、きっとできない。できるとしたら、最大限考えて寄り添ってあげることだけだ。


「彼女が拒否したら、君はどうする?」

「雛の意志を尊重します。俺は別に、無理にやり直して欲しいと思ってるわけじゃありませんから」


 どこまでいっても優人は雛の味方だ。

 雛が自分の意志で明たちとの関係をやがて断ちたいと思うならそれでいいし……これはまだ不相応な考えだと分かっているけれど、将来雛には違った形で『家族』を与えることだってできる。


 あくまで決めるのは雛と、そして明たち。ただ、その機会が無いまま終わってしまうのは悲しいと思うだけだ。


「……何から何まで、君の言う通りだな」


 ため息混じりにこぼれた小さな呟きを、その場が静かなだけに優人の耳は拾った。その意味を尋ねるようにわずかに首を傾げると、明は内側から滲み出るような苦い微笑を浮かべる。


「訊いてみないと分からない。訊きもせずどうせ無理だと終えてしまうのは、結局向き合わずに逃げてるだけなんだろうね。……一度彼女と、あの子と真剣に話してみようと思うよ。断られるかもしれないが、その時はその時だ」

「ありがとうございます」

「礼を言うのはこちらだよ。君と話したかったのは、背中を押してほしい気持ちがどこかにあったのかもしれない」


 つくづく情けない話だと付け加えて、明はコーヒーの最後の一口を飲み干す。

 そういえば最初の一口以降、優人はカフェオレに口をつけていなかった。思い出したようにストローを口にし、ほろ苦い液体で一息つく。


「あ、話すのはいいんですけど、今はそっとしておいてもらえますか? ここ一ヶ月ぐらいは雛にとって大事な時期なので」

「そうか、分かったよ。どちらにせよ妻とも話し合わないとだから、こちらもすぐにとは言えないさ」


 五月後半には一学期の中間テストが控えている。学年一位に返り咲くことを目標としている雛にとって、今は何より集中したい期間になるだろう。

 幾分か緩やかになった雰囲気の中、優人がカフェオレを吸い上げていると、明の視線がじっと注がれているのに気付いた。


「……何ですか?」

「いや、天見くんはあの子の一つ年上という話だから今は高三だろう? それにしては落ち着いていると思ってね」

「そ、そうですか」

「ああ。君の両親はとても良い育て方したんだろうね。見習いたいぐらいだ」


 そう言って自嘲気味な笑みを浮かべたかと思えば、テーブルに両肘を突いて表情を意引き締める明。

 これまでと別種の真剣さを漂わせた様子を見て優人が背筋を固くすると、明はおもむろに口を開く。


「天見くん、今さら言われるまでもないと思うが、それでも言わせてくれ。これから先も、どうかあの子のことを支えて欲しい。誰よりも近い――恋人・・として」


 深く頭を下げられる。

 真摯な願いが込められた言葉には自然と優人の身に沁み渡るような熱があり、一も二もなく頷きたくなる。


 でも、さすがに、真摯な願いだからこそ、一応訂正しておかないといけない部分があって。


「……あの、俺、雛の恋人ってわけじゃないんですけど」


 まだ、とは言いたいけど、それはひとまず置いといて。


「……………………え?」


 たっぷり三秒ほどは要しただろうか。まさしく鳩が豆鉄砲を喰らったようなぽかんとした様子の明が目と口をまーるく開く。


「……違うのかい?」

「ええ、まあ……」

「……生き別れの実の兄とか?」

「違います」


 あれほどの美少女と目つきの悪い血縁関係があったらそれこそびっくりだ。


「え、芽依――木山さんからそういう風に紹介されてました?」

「いや、確かに彼女からも、隣の部屋に住んでいる学校の先輩としか聞いてなかったが……しかしその、何というか……」

「何か、すいません……」

「いや、こちらこそ変な勘違いをしてすまない」


 雰囲気が悪いよりはずっといい。しかし、それからしばらく優人たちのテーブルは非常に微妙な空気に包まれるのだった。







 ひとまず話にも決着が付いたのでお開きに。明の運転する車に揺られ、優人は再び待ち合わせと同じ場所の駅前に戻ってきた。


「ここでいいのかい? 家の前とまではいけないが、近いところまでは乗せていっても構わないが」

「はい。一人でゆっくり考えたいこともあるので大丈夫です。ありがとうございました」

「分かった。気を付けて帰ってくれ。本当に今日はありがとう。改めて感謝するよ」

「いえ。空森さんもお気を付けて」

「ああ、それではね」


 最後は顔に似合う落ち着いた笑みを明は覗かせ、彼の車は車道の先へと消えていった。

 これで終わったわけではない。むしろようやくスタートラインに立てたようなものだろう。それでも、今日の自分が何かしらの解決の糸口になれたのなら良かったと思う。


(さて、と)


 他人の心配も大事だが、そろそろ自分の問題に目を向けるべきだろう。


 ――そう、自分の立ち位置について。


 雛を支えたいと豪語しておきながら、今の優人の立ち位置は彼女の隣人で先輩だ。それが他人の目から見てどれだけいびつなのかは、先ほどの明の反応が雄弁に語ってくれた。


 正直に言うと、付かず離れずの今の関係は居心地が良かった。

 自分は雛のことが好きで、きっと雛も似たような気持ちを抱いてくれて、それに安心しているところがある。


 けれど、もうそれじゃダメだ。

 これから先も、この先もずっと支えていきたいと、雛の隣にいたいと思うのなら、いい加減踏み出さないといけないんだ。


 だから、俺は。


「――よし、決めた」


 その一言を確かに口に出し、優人は駅の改札へと向かう。

 鋭い目の奥に、確固たる決意を宿して。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る