第100話『対談』

 芽依の電話から二日経った日の午後。

 自宅の最寄りから数駅離れた駅の改札前で、優人は柱に寄りかかりながら来るべき相手を待っていた。


 万が一にも雛に見られることのないよう、普段ならまず訪れない駅を待ち合わせ場所に選んだのだが、それだけに見慣れぬ景色が優人の心中を落ち着かなくさせている。

 行きつけの場所にでもした方がまだマシだったか。いや、どうしたってこのはやるような気持ちは変わらないだろう。


 大きく息を吸って、そして吐いて呼吸を整え、ちょうど近くに設置してある鏡で身嗜みのチェックを行う。

 今日のような日にはいわゆる正装が望ましいと思うが、生憎と今の優人にそんな一張羅の持ち合わせはない。だから選んだのは学校の制服で、いつもより畏まって着用したつもりの一着に乱れがないかを入念に確かめていく。


 ただの偶然にはなるが、この前の看病の時に雛がアイロンをかけてくれて良かった。


「――失礼。天見優人くん、かな?」


 制服のネクタイを改めて締め直した、その瞬間だった。

 横合いからやんわりとかけられた男性の声に身を固くした優人は、一呼吸挟んでから声のした方へ向き直る。


「はい、そうです。えっと、あなたが……」

空森そらもりあきらだ。どうも初めまして」

「初め、まして」


 芯のある低い声音で告げられた挨拶につっかえながらも答えつつ、不躾を承知で優人は目前の男性を観察する。


 義理なのだから当然と言えば当然だが、雛とは違う黒髪黒眼。

 綺麗に切り揃えられた髪の下には落ち着きのある顔立ちがあり、歳は四十に届くかどうかといったところだろう。

 優人よりもやや上背のある体躯を仕立ての良さそうなダークネイビーのスーツで包み、ネクタイや上着の胸ポケットから覗くチーフなどの小物一つをとっても、知識の浅い優人でも感じられる質の良さがあった。


 決してひけらかしているわけではなく、滲み出るような人間としての高い品格。

 仕事で成功を収めているというのは雛から聞き及んでいたが……なるほど、確かに成功者然とした雰囲気が漂う人物だ。


 一回り以上もある歳の差、そしてそれ以上に離れた社会的な格の違いに気後れしそうになる優人だが、ぐっと奥歯を噛んで心と表情を引き締めた。たかが最初の挨拶で怯んでいては先が思いやられる。


 強張る優人を見てか、明はふっと静かな微笑みを浮かべた。


「今日はすまない。急な申し出だったろうに、こうして時間を取ってもらってありがたく思うよ」

「いえ、ゴールデンウィークですし、学生の身なのでそこまでは。逆にそちらこそ大丈夫なんですか? かなり忙しい人だと聞いていますが……」

「何を優先すべきかは心得ているつもりだよ。……今さら言えた話でもないがね」


 恐らくただの一人言として付け足されたその言葉を、けれど優人は聞き逃さなかった。

 悔いるようなその響き――少なくともこの人は、雛のことについて何かしら負い目を感じている。


 ただの冷血漢ではないことを再確認した優人が幾分か表情を和らげていると、明は顔を上げて遠くを見据えた。


「近くのカフェを見繕ってあるんだ。立ち話というわけにもいかないし、まずはそこに腰を落ち着けようと思うが構わないかな?」

「はい、構いません」

「ならこっちだ。車を回してあるから付いてきてくれ」


 明の後に続いて駅前から離れる。

 芽依に仲介してもらった結果、今日の話し合いは優人と明の一対一となっている。高校生相手に、大の大人が二人揃ってというのも気疲れするだろうという空森夫妻の配慮であり、優人も素直にその提案に乗らせてもらった。


 両方と話すことができれば一番望ましかったかもしれないが、実際に明を前にして判断が正解だったと思う。

 とにもかくにも本題はこれからだ。

 改めて気を引き締め、優人は確かな足取りで明の背中を追った。







 近くと言ってた割には、明の運転する車で到着した喫茶店は駅から車で十分ほどの距離にあった。

 優人が利用したことのあるようなチェーン店ではなく、いかにも高級感の漂う店構え。重厚そうな扉を開けた先の店内も同様であり、床に敷かれた深緑の絨毯の上を歩くことすら躊躇ってしまいそうほどだ。


「とりあえず、話は注文が来てからにしようか」


 二人掛けの席に向かい合わせで座り、明の勧めに同意して革張りのメニュー表を開く。

 ――半ば予想はしていたのに、商品名の右横にずらりと並ぶ数字の列を目の当たりにして引きる頬を抑えられなかった。

 払えないわけではないけれど、そういう問題じゃない。


「連れて来たの私なのだから、支払いはもちろん持たせてもらうよ」

「……ありがとうございます」


 対面から届いた苦笑混じりの声に、軽く頭を下げて答える。

 優人は今日、あくまで対等な立場としてこの話し合いに臨んだつもりだ。成人すらしてない若輩者が身の程知らずだとは思うけれど、せめて心構えはそれぐらいで。

 だから相手のご馳走になることがあっても丁重に断るつもりだったが、そんな見栄は文字通り木っ端微塵に吹き飛ばされた。


 お互いに決まったところで注文を済ませ、ほどなくしてテーブルに二人分の飲み物が並ぶ。

 自分の前に差し出されたアイスカフェオレで喉を潤し、優人は意を決して口火を切ることにした。


「それで、今日はどういったお話ですか?」

「……そうだね」


 明からの返事はどこか要領を得ない。少し待ってもそれは変わらず、明は誤魔化すようにホットコーヒーの入ったカップで口元を隠すばかりだ。


「あの、空森さん?」

「……すまない。呼び出しておいて何だが、何からどう話せばいいかと思ってしまってね……」

「一通りの事情は把握できてると思います。雛が義理の娘であることも、あなた方が雛を引き取った理由も、どうして雛が一人暮らしを始めたのかも」

「……それは、彼女から聞いたのかい?」

「はい。もちろん無理強いして聞いたつもりはありません」

「そうか。……信頼されているんだな、君は」


 わずかな音を立てて明がカップを置く。

 露わになった口元には、自嘲気味な笑みが浮かんでいた。


「……その話を聞いて、君はどう思ったかな?」


 感情の読めない瞳が優人を見る。

 どう答えるべきか、一瞬迷いが生じたものの正直な想いを話すことにした。ここで取り繕うことを、明は望んでいないように思えたから。


「……あなた方にも、色々と抱えているものはあったと思います。同情できる面だって確かにある」


 身体的な理由で恵まれなかった子宝。本人たちには如何ともし難い話で、それならそうと割り切っていたのに、周囲の心ない人は彼らを子無しと嘲笑あざわらう。

 思慮も分別もない悪意に晒された彼らの辛さは、優人には到底計り知ることなどできないだろう。


 けど、だからと言って。


「それでも、その意趣返しのために雛を利用したことは間違ってます」


 真っ向から明を見据え、優人はそう断言した。


 実の両親に捨てられた雛はきっと家族という形に人一倍飢えていたはずだ。

 そんな雛の憧れを踏みにじった。

 それでもどうにかしようと足掻いた雛の努力すらも利用した。

 雛がどんな気持ちで日々を過ごしていたのか理解しなかった。


 たとえ理由がどうであれ、それだけは、変わりがない。


「――そうだね」


 優人が突きつけた言葉のナイフを、明は静かに受け止めた。

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