第98話『蜜沼への誘い』

「……至れり尽くせり」

「はい?」


 時刻が夕方に移った頃、今の雛を眺めながらの優人の一言に彼女は小首を傾げた。


 昼食の後にこれまた当然のような流れで台所の後片付けを始めた雛。

 それすら終わっても自分の部屋に戻ることはせず、引き続き甲斐甲斐しく優人を看病してくれて、しばらくすると一度近所のスーパーへ買い出しに。


 スーパーへの行き帰りなんてそんな長時間を要するわけでもないのに、出かける前には口酸っぱく「何かあったらすぐに連絡するように」と人差し指を立てて言い聞かせてきたのが、心配性な母親のようで少し可笑しかった。


 結局雛が不在の間も何事もなかったのだが、予想より早く帰ってきた彼女の肌がうっすらと汗ばんでいるように思えたのは気のせいではなかっただろう。


 買ってきたものをテキパキと冷蔵庫に詰め、それが一段落したと思えば雛の次の目標はベランダに干された洗濯物へ。

 結構ため込んでいたので、優人が午前中一眠りする前に気怠い身体を酷使して行ったものだが、優人の看病のみならず目に付いた家事は一通り請け負ってくれるらしい。さすがに先んじて下着だけは回収させてもらったけれど。


 さて、そんな世話焼きである雛が今なにをしているのかと言えば、洗濯物の中にあった優人の制服のシャツ数枚にアイロンがけをしている。

 形態安定加工が施されたものなのでそれほど皺が目立つわけでもないのだが、アイロンをかけるのとそうでないとではやはり見栄えが違う。着々と綺麗に手入れされていく衣服を優人は感心した様子で眺めていた。


 というか、アイロンがけが様になっている女子高生というのも中々にレアではなかろうか。雛の家事スキルの高さを改めて思い知らされる。


「何か言いましたか?」


 優人が小声で呟いた一言は聞き取れなかったらしく、雛は使い終わったアイロンの電源を切ってシャツを畳みながら聞き返した。


「至れり尽くせりだって言ったんだよ。ほんとなんか、申し訳なくなるぐらい色々世話してもらってるなって」

「またそういうことを言って……風邪引きさんは素直にお世話されていればいいんですよ」

「だけどさあ……なんかこう、駄目人間になったみたいに思えてさ」


 正直、雛の行動は看病の範疇を越えているのではないか。

 もちろん頭が上がらないほどありがたいのだが、こうあれもこれもしてもらうと自分がぐうたらな人間になったような錯覚を抱いてしまう。


 熱も下がってきてだいぶ楽になった身体をベッドに横たえながらの優人の自虐に、雛はくすりと軽やかな笑みをこぼした。


「自分からそんな風に言える内は大丈夫ですよ」

「どうだかな。何かにつけて雛に甘えるようになるかもしれないぞ?」


 雛の甲斐甲斐しいお世話にはそれだけの魅力――いや、魔力があると言ってもいい。

 しかし優人のそんな危惧とは裏腹に、雛は表情を変えず白い頬に人差し指を当てた。


「ふむ、そんなだめだめな優人さんが見れるならいっそ見てみたいものですね。まあ安心してください。私だって別に何の理由もなく甘やかすつもりはありませんから。もし優人さんがだめだめさんになった時は――」

「尻でもひっぱたいてくれるか?」

「――それだとちょっと可哀想なので、頑張れるように励ましてあげます」


 ……それが甘やかすじゃなければ、いったい何だと言うのだろうか。


 曇りを一切感じさせない愛らしい笑顔を前に、思わず真剣に考え込んでしまう。

 これは、きっとあれだ。優人が自分自身を律さなければずぶずぶと泥沼――泥というよりは蜜と言った方が正しいと思うが――に沈み込んでいくことだろう。


 気を付けなければと身を引き締めていると、洗濯物を畳み終えた雛が立ち上がり、優人が横たわるベッドの端に腰を下ろす。それから優人の身体の横に手を突くと、もう片方の細い指先でそっと優人の額の上の髪を撫でていく。


 雛の目にはきっと、優人のいつも通りの鋭い目つきが大きく露になって映し出されていることだろう。

 けれど欠片も臆する素振りはなく、親愛の込められた眼差しが注がれる。


 柔らかな微笑みの中に、そこはかとない妖艶さを織り交ぜて。


「少なくとも今日は、好きなだけだめだめになっていいんですからね?」


 部屋の照明を静かな逆光として味方につけながら、心の内にするりと入り込んでくるような声音で雛が囁く。あまりにも甘美な響きに言葉が出てこず、ただ目の前の雛の笑みを見つめることしかできなかった。


 いっそ色香すら纏わせる表情にどうすればいいか分からないでいると、ゆっくりと雛は身体を離す。ほんのりと頬が赤らんでいるところを見ると、やった本人もそれなりに恥ずかしかったらしい。


 ――良かった。あのままだとどうなっていたことか。

 安堵と、それから口惜しさも覚えながら優人は長く息を吐いた。


「さて、お夕飯はどうしましょうか」


 切り替えるようにこほんと小さく咳払いをした雛がそう呟き、優人の顔を窺ってくる。


「顔色はだいぶ良くなったように見えますけど、お昼に比べて食欲はどうですか?」

「おかげ様で。昼が軽かったぶん結構空いてきたかな」

「そうですか。でも、まだ消化に良いものがいいでしょうし……なるべく栄養を摂ることも考えると……鍋焼きうどんとか?」

「うわそれめっちゃ美味そう」

「ふふ、決まりですね。ご期待に添えるよう頑張るとしましょうか」


 ぐっと拳を握って立ち上がる雛。


 振る舞われた鍋焼きうどんはもちろん美味しかったし、雛の手厚い看病のおかげで翌朝には風邪が完治したのは至極当然の結果であった。

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