第97話『紙一重』

「食欲はどうですか?」


 一旦自宅に帰って私服+眼鏡に着替えてきた雛からそう尋ねられた。

 時刻は十三時に差し掛かったところ。いつもなら腹が空いてくる頃合いだが、風邪のせいで食欲自体はあまりない。


「あー……吐き気は大してないけど、そんなに腹が減ってる感じはしないかな」

「そうですか。見た感じ熱もまだあるみたいですし、薬を飲むためにも少しはお腹に入れた方がいいですね。お粥ぐらいなら食べれそうですか?」

「ああ、たぶん大丈夫だけど……作ってくれるのか?」

「何の為に早退までしたのかと」


 引き締まった腰に両手を当てた雛がほんのりと呆れた様子で項垂うなだれた。だがすぐに顔を上げると、着替えついでに用意してきた荷物から取り出したエプロンを身に纏い、髪をまとめて台所に立つ。


「台所をお借りします。元気になれるの用意しますので待っててください」

「頼む」


 首だけ振り返った雛からの明るい言葉に、ベッドの上で片手を上げて答える。

 ただでさえ美味な雛の手料理だ。何やらずいぶんと気合いも入ってるみたいなので、風邪を引いて食欲が減退している今の優人でも美味しく食べられる一品を作ってくれるだろう。


 しばらくゆっくりしていれば徐々に出汁だしのいい香りが鼻先を撫で、淀みない動きで手を動かす雛の背中を眺めている内に調理が終わったらしい。

 ベッドに近寄ってきた雛が持つトレーには、ほわほわと湯気を上らせるどんぶりとスプーンが置かれていた。


「お待たせしました」


 どんぶりの中身は卵粥。具は卵と細かく切った青ネギだけのシンプルな構成で、弱った胃を気遣ってか見た感じ水分が多めだ。

 雛がスプーンで軽くかき混ぜると、先ほどから香っていたほどよい出汁の香りがさらに色濃く香り、知らず優人の口内に涎が滲む。

 たかがお粥であってもさすがの完成度で、しかも好意を寄せる相手が手ずから作ってくれたとあれば致し方ないことだ。


「食べれそうですか?」

「ここまできていらないなんて言うわけないだろ。ありがとう、食べるよ」

「はい、それでは」


 ――ここで、お互いの行動に齟齬そごが発生した。


 風邪引きとはいえ寝込んでしまうほど重症でない優人は、当然自力で食べようと身体を起こし、雛からトレーを受け取るべく体勢を整える。

 しかし当の雛にはその気配がなく、卵粥の一口分をスプーンですくい上げると、それを自分の口元へ近付けて、吐息を吹きかける。


 ふー、ふー、ふーと。


 潤いのある唇をすぼめながら、繰り返される同じ動き。舞い上げられた湯気で眼鏡のレンズをわずかに曇らせた後、納得がいったらしいところで前を向いた雛は、手にしたスプーンをゆっくりと優人の顔の前へ差し向けた。


「はい、あーん」


 穏やかな笑顔で、さも当然のように。曇りの晴れた眼鏡の向こうから覗く金糸雀色の瞳は、どこまでも相手をいたわる優しい光をたたえながら。


「…………」


 口内の涎を無意識に生唾として飲み込んだのは、差し出された一口があまりにも魅力的で、なおかつどこか蠱惑的に思えたからだ。

 雛の柔らかな吐息で冷まされた卵粥は、ゲームで例えれば強烈な強化バフをかけられた状態に近く、粘性のあるお粥がさらに甘い蜜でも足されたかのようにとろけている。


 食べることに、無性に背徳感を覚えてしまうのは何故か。

 いや落ち着け。状況を考えれば雛の行動はそうおかしいことでもない。

 そもそもあーんなら前にもされたことあるし。……あれ、もしかして初めてか? いややっぱり覚えはある。はず。だったと思う。


 ぐるぐると行ったり来たりを繰り返す優人の思考は定まらず、スプーンを差し出したままの雛が疑問符を浮かべる。


「あ、もう少し冷ました方がいいですか?」

「いいいい、食べる食べる」


 これ以上ふーふーなんてされたら余計に食べ辛くなりそうで、慌てて手を振った優人は意を決して上半身を前に傾けた。

 万が一の火傷に注意してるであろう雛がじーっと見守る中、スプーンを口に含み、引き抜きざまに卵粥を口内へ招き入れる。


 ちょうどいい温度に冷まされた一口は、やはり美味しいの一言に尽きた。

 作り手の気持ちが沁み込んだような優しい旨味は咀嚼するほど口の中へ広がり、そう時間を経たずに胃の方へ滑り落ちていく。


「どうですか?」

「美味い。なんかこう、落ち着ける味だ」

「ふふ、問題なく食べられそうで良かったです」


 破顔する雛。どこまでも優人を気遣ってくれる温かさに心の底から感謝していると、優人が一呼吸をついたのは見計らって雛の手が動く。


 ふー、ふー、ふー。


「優人さん、あーん」


 ……まあ分かり切った話なのだが、いくら軽めの量で用意してくれた昼食といえど、たったの一口で終わるはずもなくて、先ほどと同じ行程を経ての二口目がごく自然に優人の目前へ。


「……なんつーかこれ、餌付けされてる気分だな」

「心外ですね。私的には優人さんを大事に気遣ってるつもりなんですが」

「分かってるよ冗談だ」


 それはもう、たまらないほど伝わっているわけで。

 いっそ餌付けと割り切ってしまった方が楽かもしれないなんて苦笑しながら、二口目もしっかりと噛み締めて味わう。


『幸せ』と『辛い』は横棒一本分しか違わない紙一重の関係。

 そのことを嫌というほど思い知らされる、そんなひとときの昼食であった。

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