第96話『優等生もたまには』

 ひやりと冷たく、それでいて心地良さも覚える感触が、優しく押し当てられている気がする。

 いつの間にか一眠りしたらしい。覚束ない思考でとりあえずまぶたを開けてみれば、何故か視界の大半が白い布地で埋め尽くされている。


 けれどそれもすぐに離れ、光を取り入れて開けた視界がゆっくりと目の前の対象に焦点を合わせていく。

 こちらをじっと覗き込む、天使と見紛うほどの柔らかい微笑みを浮かべた少女の顔。


「ごめんなさい、起こしちゃいましたか?」


 天使――改め制服姿の雛が、ほんのりと気に病んだような声音で囁きかける。

 ベッドのそばで立て膝をついた彼女の手には白いタオルが握られていて、見たところその布地が湿っていることから、優人が寝ている間に滲んだ汗を濡れタオルで拭ってくれていたことが何となく分かった。


 身体の気怠さは依然として残っているものの、眠気という点ではすっきりしている。

 まだ少し不明瞭な頭でせめて「大丈夫だ」と口にすると、雛はふわりと表情を綻ばせ、丁寧な手付きで優人の頬にタオルを再度押し当てた。


 冷たいけど、温かい。


 寝起きから幸せな感触にしばし身を委ねていた優人だが、覚醒した思考がふとした疑念を優人に投げかける。


「……あれ、今何時?」


 今日は平日だから、土曜の半日授業と違って午後までしっかり授業があるはず。だというのにすでに雛が帰宅しているということは、かなりの時間寝ていたということになる。

 さすがにそこまではといぶかしんだ優人が時刻を確認するよりも早く、雛が事も無げに口を開く。


「お昼過ぎですね」

「え、なら何で……」

「仮病を使って早退しちゃいました」


 悪びれた様子もなく、むしろしてやったりと言わんばかりに優等生らしからぬ行いを白状する雛。

 小さく舌を出す仕草はとても可愛らしくて似合っているのだが、わざわざ嘘をついてまで早退した理由が自分にあると分かる優人としては、漫然と見惚れるわけにはいかなかった。


「お前なあ……一人でも大丈夫だって言っただろ?」

「別に優人さんの言葉を信用しなかったわけじゃありませんよ。それでもやっぱり心配なものは心配で、授業にもあまり集中できませんでしたから。私の精神衛生上もこの方が良かったんです」

「ったく……。そういや玄関の鍵は? 雛を見送った後にかけたはずだけど」

「事情を話して木山さんから合い鍵を。ついでに私の時のように差し入れのりんごも頂きました」

「手際が良いことで」


 見せつけられた鈍色にびいろの鍵を一瞥し、片腕で目を覆った優人はため息を一つこぼした。

 まったく、テストに向けて大事であるはずの授業にすら構わず、優人のことを優先しただなんて。


 ありがた迷惑――なんて切って捨てることができないのも、結局雛の厚意を素直に嬉しいと思う自分がいるからだろう。大丈夫だと言ったくせに、いざそばにいてもらえるだけでこうも心が癒されてしまう。


「……悪い、迷惑かけて」

「謝らないでください。ちっとも迷惑だなんて思ってませんし、優人さんだって私の看病をしてくれたじゃないですか。ただ、そのお返しをしてるだけですよ」


 妙に意気込んでいるように見えたのはどうやら恩返しの意味合いもあるらしく、視界を遮っていた腕をどかすと、任せてくださいと言いたげに微笑む雛と目が合う。

 カーテンの隙間から差し込む昼下がりの陽光に照らされた笑顔が、いつも以上に優しく、どこか母性に溢れたようにも見えた。


 年下相手にそういった印象を抱くのも気恥ずかしいが、ここまで来たら素直に頼らせてもらおう。


「ありがとな雛、助かる」

「どういたしまして。今日は存分に頼ってください」


 ふんすと気合い十分な雛。世話焼きな一面をこれでもかと発揮する彼女の愛らしさに優人が胸の奥を温かくしていると、雛は不意に自分の顔の前に両手を上げた。

 そのまま両手の親指と人差し指で長方形を形作り、まるでカメラのようにそれを優人へ向ける。


「うーん……やっぱり割と似合ってる組み合わせだと思いますけど」

「え?」


 いったい何のことなのか。脈略のない雛の称賛に頭を捻りそうになった優人だが、すぐに何と何の組み合わせを指しているかに思い至り、途端に渋面を浮かべる。

 眠る前、つい腕の中へ引き寄せてしまったぬいぐるみはもちろん一人で勝手にどこかへ行くわけもなく、未だ優人の傍らでふんぞり返っていた。

 くびれのない胴回りがやや凹んでいるのは少し前まで優人が抱きしめていた動かぬ証拠だろう。


「ふふふ、私が留守の間を任せて正解でしたかね」

「……まあ、抱き心地は悪くないんじゃないか」

「そうですかそうですか」


 悔しい。笑顔を通り越してにやけ面の域に片足を突っ込んでいる雛に何か言いたくても、彼女の思惑通りの行動を取ってしまったのは事実なのでただの言い訳にしかならない。

 強いて言えば、ぬいぐるみから雛の存在を感じられたからこそ抱きしめたわけなのだが、そんな恥ずかしい理由を正直に打ち明けられるわけもない。ただでさえ平熱よりも高い体温が余計に上がるのは目に見えていた。


 結局優人の返答は鼻を鳴らすだけに留まり、ひとまずの役目を終えたぬいぐるみを元の飼い主の方へと送り返す。

 飼い犬を優しく迎え入れた雛はしばしもふもふの身体に顔の下半分を埋め、それから変わらず楽しそうな瞳を優人へ向けた。

 ついでにぬいぐるみの顔もわざとこちらに向けてくるので、二対の瞳がじーっと優人を見つめる形だ。


「いいんですか、今日一日預けても構いませんけど?」

「……うるさい」


 ぬいぐるみの前足で優人の腕をくすぐってくる雛に、やっぱり鼻を鳴らすぐらいしかできない優人だった。

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