第95話『オトモ』

 高校三年生として始まった日常はつつがなく進み、じきにゴールデンウィークが訪れるというある平日の朝のこと。

 ベッドから起き上がったというのに、顔を洗いに行くことも着替えることもしない優人は、脇の下に挟んだ細長い物体からしらせが来るのをじっと待っていた。

 やがて特有の電子音が計測完了を告げ、優人は俗に体温計と呼ばれる機器のデジタル表示画面を顔の前に持ってきた。


 ――37.8℃。


 概ね予想通りの結果にため息をつくと、体温計はケースの中にしまって座ったまま肩や首やぐりぐりと回してみる。発熱しているだけあってやはり全体的に身体がだるかった。


 完全に風邪を引いたと、そう結論づけて優人はベッドに背中を預ける。

 思い返せば、昨日の寝る前から微妙に身体がだるかった気もする。

 ここ最近、特に不摂生な暮らしをした覚えはないが、風邪の原因なんて考えてもキリがないだろう。それこそ降って湧いた災難でしかないと割り切り、冷蔵庫に常備してあるはずのスポーツドリンクや栄養ゼリーの在庫を脳内で数える。


 すると、来客を告げるドアチャイムの音が鳴った。

 壁に掛けた時計を見ればすでに頃合いと言ってもいい時間で、なのに未だ外に出てこない優人を不思議に思った彼女が鳴らしたのだろう。


 お互いの予定でたまにズレる時はあれど、一緒に登校するのがすっかり当たり前になった。その事実に軽い笑みを浮かべ、気怠い身体に鞭を打って玄関へと向かう。

 玄関のドアを開けた先にいたのは、今日も変わらず学校の制服を模範的に着こなした雛だった。


「優人さん? そろそろ行かないと――って、……?」


 まず雛が目をつけたのは、この時間になっても制服に着替えず寝間着のままである優人の格好だろう。そして優人の顔へと視線が移り、そう間を置かず端整な顔立ちには焦りの色が滲んでくる。


「……熱、あるんですか?」

「ご名答。ってわけで俺学校休むから……ごめん、今日は一緒に行けない」

「それは全然……! というか大丈夫なんですか? 一人じゃ大変でしょうし、今日は私も――」

「大丈夫だ。それには及ばない」

「でも……」

「一人暮らし歴なら雛より長いんだぞ? 今までだって風邪引いたことはあるし、薬とか飲み物は常備してある。立って歩けないほどの高熱でもないから、雛は学校に行ってこい」


 決して強がってはいないと、さとすような口調で雛へ告げる。


 もちろん雛に看病してもらえればありがたいことこの上ないが、一人ではどうにもならないほど重い症状でもない。経験則上、一日安静にしていれば明日には復活できる程度のものだ。


 それに看病してもらった結果、雛に風邪を伝染うつしてしまうかもしれないと思うとそれが怖い。来る中間テストに向けて日々の勉学に励んでいる雛には、なるべくマイナスとなる要因を与えたくはないから。


 ずいぶんと葛藤したのか、しばらく唸ってから顔を上げた雛は不安に揺れる瞳で優人を見つめる。


「……本当に、大丈夫なんですか?」

「ああ、大丈夫だ」

「むー……なら、とりあえず行きますけど、辛かったらすぐに連絡くださいね? 買ってきて欲しいものとか教えてもらえれば――あっ」


 何か閃いたらしい雛がぱんと手を打つ。

 優人がそれを尋ねるよりも早く、雛は「ちょっとだけ待っててください」と踵を返して自分の部屋へ。言葉通りすぐに戻ってきた彼女は部屋から持ってきたものを優人へ勢いよく差し出した。


「優人さん、はいこれ」

「……いや、はいこれって、お前」


 勢いに圧されてつい受け取ってしまったそれが何かと言えば、まるまる太った寸胴ボディのお犬様――雛へのクリスマスプレゼントとして贈ったぬいぐるみである。

 雛が『ゆーすけ』と名付けたぬいぐるみは相変わらずふてぶてしい顔付きだ。


 ……で、何故わざわざこいつを?


 一瞬だが発熱していることすら忘れて本気で優人が首を捻ると、雛はさも当たり前のように口を開く。


「一人では心細いでしょうから、私が帰ってくるまで優人さんのそばにいてもらおうかと」

「お前なあ……いやその気持ちはありがたいんだけど、こちとら男子高校生なんだぞ? 絵面を考えろ絵面を」


 雛のような美少女ならともかくだ。

 この年の男がぬいぐるみにそばにいてもらうなどただでさえ恥ずかしいというのに、優人みたいに目つきが悪い男なら尚更キツい。

 試しにちょっと想像してみても、発熱とは関係ない悪寒が優人の背筋を走る。


「そんなことないと思いますけど。それに、抱いて寝ると結構落ち着くと思いますよ?」

「そうかねえ」

「そうですって。実践済みですから間違いないです」

「え?」

「あ」


 何かまた、盛大な自爆を聞いてしまったような。


 ちょっと前にも似たようなやらかしをしたはずなのに、ぬいぐるみから雛に目を向ければ、それを裏付けるように白磁の肌が朱色に染まり出す。

 まるで早速優人の風邪が伝染ったかのような火照りぶり。あわあわと前髪を忙しなくいじる雛だが、もはや焼け石に水だった。


「と、とにかくそういうことで、私は行きます! ほ、本当に辛かったらすぐに連絡くれなきゃダメですからねっ!」


 相当恥ずかしいのは顔色を見れば明らかなのだが、それでも最後まで優人への配慮を忘れずに雛はアパートの階段を降りていった。

 早歩きにはなると思うけど遅刻することはないだろう。ギリギリまで優人を待ってくれた雛に心の中で感謝と謝罪を送り、優人は『ゆーすけ』を抱えて部屋に戻った。


 とりあえず水分補給、そして栄養ゼリーで最低限腹を満たしてから薬を服用。一通り終えてベッドに倒れ込むと、急に倦怠感が襲ってきて重苦しいため息を吐き出す。

 そんな優人の傍らには、ついさっき雛から預かった『ゆーすけ』がいる。


「ま、誰かに見られるわけでもないしな……」


 誰に聞かせるでもない言い訳のような独り言を呟き、横向きになった身体でぬいぐるみを抱く。


(……雛の匂いがする)


 もふもふとした感触の中、その奥に沁み込んだような甘い香り。これまでにも何度か味わった柔らかくも温かみのある香りは、今の優人にとって何よりの安らぎだった。


「お前は良いよなあ……」


 こんな移り香が残ってしまうぐらい雛に可愛がってもらえてるのだから。

 今ぐらいはその幸せを分けてもらおうとぬいぐるみを抱え込み、優人は目を閉じる。

 感じていた倦怠感と落ち着く香りが眠気を引き連れ、優人の意識は海の底へ向かうように深く沈んでいくのだった。

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