第94話『意気込みを新たに』
「雛?」
「…………」
「おーい、雛ー?」
「…………」
「雛さーん?」
「…………」
「……ひなりん?」
「は?」
「ごめんなさい」
たぶん初めて向けられた気がする極寒の声に、優人は速攻で頭を下げた。ブチ切れでなくとも怒った彼女は確かに怖い。
昼食を終えての帰り道、からかいが過ぎてすっかりむくれてしまった雛を宥めながら二人で帰宅しているのだが、随分とへそを曲げられてしまったせいで雲行きは思わしくない。
呼びかけても目を合わせないまま無視されるし、試しにちょっとおちゃらけてみたら睨まれてご覧の有り様だ。
腰が引けそうなほど冷ややかな圧のある金糸雀の瞳から、けれど一歩も逃げることはせず、優人は頭を下げ続ける。暴露した張本人は麗奈にしても、優人だって雛の制止を聞かずに興味深々に耳を傾けてしまったし、後輩たちからは雛のフォローを任されてしまったのだから。
むしろこんな風に感情をぶつけてくれることにすらどこかで嬉しさを感じてしまう辺り、自分は雛に首ったけなのだろう。
まあもっとも、雛の怒りにしたって本当の意味のものではなく、あくまで照れ隠しからくる感情だと分かるからこその話なのだが。
「本当に悪かった。反省してるよ」
「……もういいですよ」
軽いため息が聞こえた後、「顔を上げてください」との許しを得たので優人は体勢を戻す。
完全に機嫌が直ったわけではないみたいだが、頬に詰まった空気はだいぶ抜けていた。
「……まったく、あそこまで事細かに暴露されるなんて思いませんでしたよ。みんなしてひどいです」
「悪かったって。雛があんなに狼狽えるのも珍しかったからさ」
「そんなに楽しかったんですか、もうっ」
楽しかった。
などとバカ正直に言えば今度こそ視線だけで射抜かれる気がするので、口を突いて出そうになった感想をぐっと腹の底に押し戻し、優人は「ごめん」と謝罪の言葉を重ねる。
少し早歩きだった雛の歩調も普段のペースを取り戻し、優人もそれに合わせて歩みを緩める。そうして信号に差しかかり立ち止まったところで、優人はそっと、自分の胸に宿るもう一つの感想を言葉に乗せた。
「ありがとな、俺のために怒ってくれて」
優人を見上げて雛がきょとんと眉を上げる中、気恥ずかしいものを感じつつも確かにそう伝えた。
その時は雛だって色々と大変だったはずで、理由や思惑はどうであれ、決して雛本人を悪く言われたわけではなかっただろうに。
それでも関係ないことは関係ないと、間違ってることは間違ってると、はっきりとそう言い切ってくれたことが嬉しい。そんな風に怒ってしまうほど、自分は雛からの信頼を得ているという証明なのだから。
雛がふわりと優しい笑みを浮かべ、ほんの少しだけ呆れたように顎を突き出す。
「当然じゃないですか。私は優人さんからたくさんのものを貰ってるんです。その恩返し……だからというわけではありませんけど、恩人を馬鹿にされて黙ってるほど私は優しくありません」
「そうだな」
むしろ優しいからこそ人のために怒れるのでは、と野暮なツッコミは控え、嬉しさで緩む口元を引き締めながら相槌を打つ。
「それに、お礼を言われるにはまだ早いですよ」
「え?」
「本番はあくまで次のテストなんですから。そこで一位を穫ってこそ、ようやく優人さんの疑いを払拭できるんです」
「それもそうか。どこまで行けるか分かんないけど、俺も雛を見習って頑張るとするかな」
「ふふ、なら一緒に頑張りましょうね、優人さん」
胸の前で二つの握り拳を作る雛。見せつけてきた可愛らしいガッツポーズがとても微笑ましく、優人の手は自然と雛の頭の上に伸びる。
だが、
「えいっ」
到達するよりも早く、雛の手が遮るように優人の手を掴んだ。雛の頭を撫でようとした手が中途半端な位置で止まってしまう。
「雛?」
「言ったじゃないですか、まだ早いって。……次のテストで一位を穫れた時、改めてご褒美としてお願いしていいですか?」
「いいけど、ご褒美ならもっと欲張ってもいんだぞ? 何ならまたアップルパイとかケーキとか」
「んー……それも魅力的ですが、今回はこれで。代わりにうんと優しいのを期待してます」
「ハードル上げるなあ。ん、了解だ」
「えへへ、ありがとうございます」
ぱあっと表情を明るくして雛が微笑む。
雛の頭を撫でることは優人にとっても気持ちがいいので惜しい気もするが、雛のやる気に繋がるのなら少しぐらい我慢しよう。
さて、となれば当然優人は手を引っ込めるしかないのだが、何故か雛は優人の手を解放しようとしない。むしろ感触や大きさを確かめるように力加減を変えてくるので、こそばゆさで妙に落ち着かなくなる。
「えっと、雛?」
「……どうせなら、このまま手を繋いで帰ります?」
「え?」
「冗談です」
何が何やら。
物欲しそうに尋ねたくせにぱっと手を放した雛は、いつの間にか青信号に変わっていた横断歩道を先へと進んでいく。
「――それもまだ、ですかね」
慌てて後を追いかけた優人には、恥ずかしそうな囁き声は聞き取れなかった。
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