第92話『頑張り屋さんの決意表明』

 春休みももうじき終わるという四月のある日、優人の部屋にはアパートの大家である木山きやま芽依めいが訪れていた。

 高校生活を始めるにあたって借りたこの物件の通常二年という契約期間満了にあたり、その契約更新のために来てもらった形だ。


 芽依とは向かい合わせで座り、テーブル上に広げた契約に関する書類を前に優人はボールペンを手に取る。


「サインはこことここで大丈夫ですか?」

「うん、それでお願い。でもその前に契約内容には一通り目を通してね?」

「前と同じなんですよね? だったら問題ないです」

「……へえ、そんなこと言っていいのかなあ。実は家賃を倍額にする文言をこっそり混ぜてあるんだけど」

「え」

「あはは、ウソウソ! でも世の中いい人ばかりじゃないんだから、こういう契約書にはちゃんと神経を尖らせた方がいいんだよ?」


 お姉さんからのアドバイス、なんて得意げに人差し指を振って言ってのける芽依。

 からかい混じりの口調はさておき、言ってることは至極真っ当なので大切に保管していた前回の契約書を引っ張り出し、内容を見比べながら目を通していく。変更点はなかった。


「これでお願いします」


 内容の確認、所定箇所の記入や押印、その他必要な書類をまとめて芽依へ差し出す。受け取った芽依は不備がないかを一つ一つ入念にチェックし、最後に笑顔を浮かべると書類の角を揃えて封筒へしまった。


「うん、これにて更新完了。それでは優人くん、今後ともよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」


 会釈する芽依に対し、姿勢を正して彼女よりも深く頭を下げる。

 一般的な大家と住人の関係よりは親しい間柄だと思うが、親しき仲にも礼儀ありというヤツだ。


 一礼を終えて顔を上げると、優人が用意したコーヒーの最後の一口を飲み干した芽依が身体を解すように首を回していた。


「よーし、これであとは雛ちゃんの手続きをすれば完了だ」

「雛の? 更新にはまだ早いんじゃ……」


 芽依が口にした言葉に優人は首を傾げる。


 雛がこのアパートに住むようになったのは十月のことで、約二年暮らしている優人と違い雛はまだ半年程度だ。契約更新にはずいぶんと早い。


「ほら、雛ちゃんの場合はそもそもの事情が事情だったでしょ? だから雛ちゃんのご両親とも話して、とりあえず四月までの約半年ってことで特別に契約してたの」

「そうだったんですか」


 確かに言われてみれば、雛がここに辿り着いたのは家出という強硬策を経ての結果だ。一般的な新生活の皮切りとなる四月を一つの区切りとするのは、そうおかしい話でもないだろう。


「…………」


 優人の胸中に不安が忍び寄る。

 現状雛がここで生活できるのは、義理の両親である空森家からの家賃や生活費の援助があってのことだ。つまるところ、彼らの意向次第でいとも容易く雛の生活の基盤は瓦解する。


 さすがに別の学校へ転校なんてことはないと思うが、優人の隣室から雛がいなくなる可能性は十分にありうるのだ。


 今の優人にとって雛が隣にいることはとても慣れ親しんだ、だからこそかけがえのない日常と言っていい。それが脅かされる可能性を目の前にすれば、優人の背中を嫌な汗が滑り落ちていく。


「心配しなくても、優人くんが考えてるようなことにならないと思うよ?」

「え?」


 いつしか下を向いていた顔を弾かれたように上げると、こちらを窺う芽依がニンマリと見透かしたような笑顔を浮かべていた。


「手続きって言ってもほぼ最終確認みたいなものでね、雛ちゃんが引き続きここに住むことはもう決定してるから」

「……本当ですか?」

「うん。家賃とか諸々の費用に関しても、雛ちゃんのご両親から了承は貰ってるしね。いやー、雛ちゃんがご両親に電話する時に私も横にいたんだけどさ、あの時の雛ちゃんはなんかこう、カッコよかったよね」

「カッコよかった?」


 雛を評するに当たって可愛いや綺麗なら大いに分かるが、カッコいいというのはちょっと不思議だ。

 疑問に思って言葉を繰り返すと、芽依はその時の光景を思い返すように目を細める。


「『一人暮らしにかかった費用は、いつか必ずお返します。だから、少なくともあと一年はこの場所に住まわせてください』だってさ。……決意表明って感じだったかなあ。すごい真剣な表情でご両親に頼み込んでたんだよ」

「雛がそんなことを……」

「そうそう。まあ、最初からご両親の方も今まで通りお金は負担してくれるつもりだったらしいから、わざわざそんな宣言をする必要もなかったみたいだけどね」


 そう付け加えて、芽依がゆるりと肩を下げる。

 どうやら雛の義理の両親も、現状の生活を維持することには肯定的でいてくれるらしい。


 その事実に優人もまた肩の力を抜くと、テーブルに頬杖を突いた芽依がニマニマと口元に弧を描かせて優人を見やる。


「それにしてもさ、『少なくともあと一年』って変な話じゃない?」

「え?」

「だって雛ちゃんの高校生活はまだ丸二年残ってるわけでしょ? それなら、普通はあと二年って頼むのが自然な流れだと思わない? なのにあと一年……なーんでなんだろうねー」


 ……それは、まさか、ひょっとして。


 思い浮かぶ一つの可能性に、優人の胸の奥が熱を伴ったざわめきを覚える。

 そのせいで変な形に歪みそうな口元を手で隠しながら、優人は芽依の視線の追求から逃れるように顔を逸らす。


「さあ、何ででしょうね」

「何でだろうね、いつ間にか雛ちゃんを名前で呼んでる優人くん」

「……っ」


 ――抜かった。そういえば今まで芽依の前では、雛のことを名字で呼んでいただろうか。すっかり名前で呼ぶことが当然のように口に馴染んでしまった。


「んふふ。まあ私も馬に蹴られる趣味はないから、やることやったしここいらで退散しようかな」


 ひとしきり優人を眺めて笑った後、芽依は書類の入った封筒を小脇に抱えて腰を上げる。

 頑張ってね、と何に対してなのか曖昧な応援を優人へ言い残すと、そのまま部屋から出て行った。


「……はー」


 自分一人だけになった室内で優人は長いため息をついた。

 雛に恋情を抱くようになってから、たぶんずっと心の片隅に巣食っていた一つの恐れ。それがひとまずただの杞憂で片付いたことに安心感を覚える。


 無意識に上げた片手がガッツポーズのように拳を形作り、それから力が抜けて解かれる。

 それは、歓喜と安堵の証明だった。

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