第91話『次の約束と感謝』

 短くも長く感じた時間をどうにか無心でやり過ごし、電車は優人たちの自宅の最寄り駅に。相も変わらず勢いの衰えない人波にも流されながら駅を後にし、少し歩いたところでようやく一息つくことができた。


 今日は一日持ちっぱなしだった雛のトートバッグが肩からずり落ちそうなのを抱え直していると、隣を歩く雛が顔をぱたぱたと手で仰いでいるのが目に入る。

 街灯の下を通りかかった瞬間優人の視界に晒される、白磁の頬を内側から炙ったような淡い薔薇色。


「……電車の中、暑かったな」

「そ、そうですね、人も多かったですし」


 ……それだけが原因でないことは、ぎこちなさを孕んだお互いの声音が証明していた。だがそれを言葉にしないことはたぶん暗黙の了解で、二人の会話はそこで途切れて自宅までの帰路を黙々と歩き続ける。


 居心地の悪い沈黙というわけではないが、他に意識を割く対象がないと味わったばかりの柔らかな感触をどうしても頭の中で反芻はんすうしてしまう。

 世の恋人たちはこんな心臓の耐久度を試される行為を日常的にやってのけているのだろううか。驚きを通り越して賞賛だ。


 雛から不自然に思われない程度に深い呼吸を何度も繰り返す。どこか覚束ない足取りがようやく落ち着いてきた頃には、自宅のアパートの軒先に辿り着いていた。

 本日の雛と二人でのお出かけ――途中で予期せぬイレギュラーもあったが――の終わりが、もう目前まで迫っている。


 改めて振り返ってみても満足のできる、とても充実した一日だった。だからこそ募る口惜しさにひっそりとため息をつきながら、アパートの階段を一段ずつ踏みしめていく。


 そうして階段を上りきったところで、後ろから付いてきているはずの雛の足音が不自然に止んでいることに優人は気付く。不思議に思って振り返ってみれば、目を伏せた雛が階段の中ほどで立ち止まっていた。


「どうした? 何か忘れ物でもあったか?」

「いえ、そういうわけではなく……ただ、あと少しで今日が終わっちゃうなって思うと、何だか寂しいような気がして」


 優人の問いで上げられた雛の顔に浮かぶのは、儚さを含んだしっとりとした微笑み。アパートの薄明るい照明に照らされた表情はなおのこと尊いものを感じさせ、それを見た優人の口元をふっと綻ばせる。


 同じ想いを共有できている事実が、嬉しい。それだけ今日のお出かけを雛も楽しんでくれたということだから。


 ここで「ならウチに泊まってくか?」なんて大胆なお誘いをする度胸はないけれど……これぐらいなら約束できる。


「また今度、どこかに行こう」

「……どこか、ですか?」

「ああ。俺が行きたいところでも雛が行きたいところでも、どっちでもいいからさ。また、二人で出かけよう」


 告げると同時、雛に向けて手を差し出したのは半ば無意識下の行動だった。約束を言葉だけでなく、目に見える形で示したかったのかもしれない。

 優人の顔と差し出された手をしばし見つめるだけだった雛は、やがて儚い笑みから一転、遊園地に連れてってもらえる子供のような無邪気さをいっぱいに押し出して階段を上り、優人の手をきゅっと握り返す。


「はい、約束ですっ。今回も言質取りましたからね?」

「念押されなくても忘れないっての。というか自分で言うのもなんだけど、俺が約束破ったことないだろ」

「あはは、言われてみれば確かに――」


 瞬間、急に雛の身体が前のめりにふらつく。足元への意識が疎かになって階段につまずいだであろう雛を反射的に正面から抱き止めてやれば、彼女の華奢な身体は優人の腕の中にすっぽりと収まった。


「最後の最後で危なかったな。大丈夫だったか?」

「は、はい」


 見たところ、そして声の感じからもどこか痛めた様子は見受けられない。そのことに安心してほっと息をつくものの、当の雛は優人の腕の中から離れる気配がなかった。

 小さく「ごめんなさい」と呟いただけで、優人の胸に顔を埋めたまま動こうとしない。


 先ほどの電車での出来事と似ているようで、決定的に違う状況。

 まだ周囲の目があった電車内と違い、今いるのは閑静な住宅街だ。人通りがほとんどない上、しかもアパートの二階に差し掛かったところなんてそこの住人でもなければまず目を向けない。


 その住人ですら優人と雛以外は通りかかる気配がないのだから、まるで世界で二人きりになったかのような静けさを感じる。

 誰に見咎められることもない。その事実と腕の中の甘美な感触が、優人の頭をよからぬ思考で埋め尽くそうとする。


「その、雛」

「……さっきもでしたけど、こうしてると思い出すんですよね」

「何を?」

「もっと甘えてくれって、優人さんに言われた時のことです」


 そう言って雛が顔を上げる。

 淡く染まった頬を隠そうとせず、信頼に満ちた金糸雀色の瞳が優人をじっと見つめる。


「すごく嬉しかったんです。どうしたらいいか分からなくなってた私に道を示してくれて、こうして落ち着ける場所を作ってもらえて。あの時から――いえもっとずっと前から、優人さんがそばにいてくれるから、私は毎日をしっかり生きていけるんだと思います」

「どうしたんだよ急に。そんな改まって」

「ちゃんとお礼を言ってなかったって思いまして。いつも、本当にありがとうございます」

「……真面目か」


 大げさにも聞こえる雛の言葉に優人は苦笑を浮かべた。けれど、それが決して誇張された想いでないことは十二分に伝わっている。

 本当に真面目で、一生懸命で、頑張り屋な女の子。そんな彼女に甘えてもらえるのはむしろ光栄だ。


 ゆっくりと伸ばした手で頭を優しく撫でると、雛は一段と蕩けた表情を見せてくれる。


「優人さん、もうちょっとこうしててもいいですか?」

「……落ち着くのか?」

「はい、とっても」

「はいはい、了解」


 わざとらしく仕方なさそうに肩を竦めて小さな背中に手を回す。

 満足げな雛の吐息を小耳に挟みながら、優人は幸福なひとときに浸るのだった。

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