第86話『お互い様です』

「もう、食べられない……むにゃ」


 なんてベタな寝言だ。思わず吹き出しそうになったのをぐっと堪え、優人は眼下の彼女を見下ろす。


 膝枕を始めてから三十分ほどは経っただろうか。優人の固いであろう膝枕は意外な安眠効果は発揮しているらしく、未だ雛が起きる兆候は見受けられない。

 寝言から察するに見ている夢は食べ物関連なようで、実は食いしん坊な一面がある雛らしい内容に優人は小さく笑った。


 願わくば、夢の中で雛のお腹を満たしているのが優人の作ったお菓子辺りなら嬉しいのだが。

 夢の中にまですら手を広げたくなる自分に肩を竦め、今度は自嘲の色を含めた笑みで口の端を吊り上げた。


 それから、満足そうな寝顔を晒している雛をじっと見つめる。


(……綺麗だし、可愛いよなあ)


 どちらかと言えば大人びた顔立ちの雛を彩る、純真無垢なあどけない表情。

 贔屓目を抜きにしても魅力的だし、彼女への想いを自覚した今ではなおのことそうで、邪魔が入らないことにかこつけて一層つぶさに眺めてしまう。


「……んぅ」


 微かに身体を揺する雛。横向きだった体勢が仰向けになり、端正な顔立ちはもちろん、抜群のスタイルの良さを誇る肢体が余すことなく優人の目に映る。

 季節の移り変わりと共に服装も段階的に薄くなってきているから、以前よりもずっとその凹凸具合が強く感じられた。


 結構食べるのに、全体的に細い。その割に肉が付くべきところはしっかり付いており、最たる例はブラウスの布地をふんわりと押し上げる二つの山だろう。深い呼吸のたび、ゆっくりと上下する様に目が釘付けになってしまうのは男のさがだ。


 それでも何とかそこから視線をズラし、ホント日頃から気を付けてるからこの体型なんだよな、と何気なく全体に目を走らせたところで――はたと気付く。


 ブラウスとスキニーパンツの狭間、そこから覗く血色の良い白。それが雛のお腹なのだと理解した瞬間、優人は口元に手を当てて低く唸った。


(無防備すぎる……)


 今に始まったことではないし、自分の前でそれだけリラックスしてくれるというのは嬉しくもあるのだが、さすがに無防備にも程があった。


 寝返りの拍子にブラウスの裾がめくれてしまったのだろう。露わになった可愛らしいおへそ回りは食後のせいか微かに膨らんでいるように見え、こちらもまた呼吸のリズムで浮き沈みを繰り返している。だからこそ引き締まりつつも柔らかさを両立したその肉感を感じ取ってしまい、口元に当てた手はそのままに優人はため息をついた。


 雛の際どい姿は何度か目の当たりにしている。けれど一向に慣れる気がしないし、今回は今までお目にかかることのなかった部位だから余計に刺激が強い。

 別にお腹はいかがわしいものじゃない、世の中にはへそ出しルックなんてのもあるじゃないか。そう自分に言い聞かせたところで、優人にはその健康的な色気が眩しかった。


 いっそ写真の一枚でも撮って、如何に無防備極まりないのかを直接本人に見せつけてやろうか。だが、それをしたらその写真を消さずに抱えそうな自分の未来が想像できて、優人はスマホを取り出そうとした手を引っ込める。


「ん、んぅ……んー……?」


 触れるのも躊躇ってしまいどうしたものかと頭を悩ませていれば、厄介な眠り姫はようやく目を覚ましてくれたらしい。

 長い睫毛がふるりと震え、次いで閉じられた瞼の間からまだ焦点の覚束ない金糸雀色の瞳が姿を表す。湿り気を帯びた輝きは幼げな色が濃く、おかげで早鐘を打っていた優人の心臓をほっこりとした気持ちで満たしてくれる。


「ゆうとさん……?」

「はいはい優人さんですよ。ったく、ようやくお目覚めか」


 寝入ったこと自体を非難するつもりはないが、直前に理性をかき乱されただけに優人の唇はわずかに尖る。せめてもの仕返しで起き抜けのほっぺたを人差し指と親指で挟んでしまえば、もちもちとした感触が指先から伝わってきた。


 いつまでも触っていたくなる感触についむにむにと指を動かす。そうしているとふやけた笑みを浮かべた雛がまた瞼を閉じようとしたので、ちょっとだけ強く力を込めてから指を離し意識の覚醒を促した。


「――……ふえ?」


 その一言が皮切り。雛の瞳が意志の光を取り戻し、優人の顔と周囲の景色を順繰りに見回す。次第に目覚めた頭が状況を理解したのだろう、じわじわと頬に広がっていく朱色を隠すように雛が両手で顔を覆った。


「……私、寝てました?」

「ああ。そりゃもうぐっすりと」

「うう……!」


 くぐもった羞恥の呻きと共に雛の身体がふるふると震える。よほど恥ずかしかったらしく両手はそのままに、指の隙間から涙に濡れた目だけを出して優人を窺ってきた。


「ご、ごめんなさい……いつの間にか、ひ、膝まで貸した頂いたみたいで……」

「貸したっつーか、雛の方からもたれてきた感じだけどな」

「あ、ああ……本当にごめんなさぃ……」

「謝るなって、別に怒ってるわけじゃないし」


 ドギマギさせられたのはともかく、基本的には眼福だったのだから。こうして羞恥に打ち震える雛の姿もまた可愛らしいので、間近で見れる立場は優人にとって役得だ。


「――よく眠れたか?」


 落ち着かせるように頭を撫でながら雛を見下ろす。自分でも驚くほど自然に出た穏やかな声音が言葉を形作ると、それを受け取った雛は何故かぴたりと静止した。

 指の隙間からでも大きく見開かれたことが分かる、金糸雀色の瞳。


「雛?」


 不思議に思って首を傾げる。すると今度はびくんと敏感な反応を見せた雛は、とうとう顔ごと背けてしまう。


「えっと、雛?」

「……そ、その目はだめ、です」

「目? あ、悪い、怖かったか……」


 慣れてくれてはいると言っても、優人の目つきは自他共に認めるほど鋭い。目覚めたばかりで直視されるのはキツかったのだろう。


「いえっ、そうじゃなくて……むしろ逆で……」

「ん、逆って?」

「と、とにかくだめなんです……! 落ち着くまでちょっと待ってくださいっ」

「……分かった」


 何だかよく分からないが、とりあえず怖がらせたわけでないのなら、良しとしよう。


「…………」


 ところで、だめと言うのなら。


「あのさ、雛」

「な、何ですか」

「いくらあったかいからって、いつまでも出しとくと……その、冷えると思うぞ」


 どこが、まではあえて言及しない。いい加減自分で気付け馬鹿。


 少し間を置いた後、小さな悲鳴が上がったのは言うまでもなかった。

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