第85話『昼下がりの休息』
気分が落ち込んだ時には甘い物を。
抱いてしまった罪悪感のせいで若干気落ちしたものの、濃厚なバニラの甘さを持つソフトクリームを食べていると段々気持ちが上向いてくる。
何より隣で心底美味しそうに食べている雛の笑顔は、見ているだけで心が洗われるというものだ。これを間近で見られるのならば、実はちょっと割高だったソフトクリームの一つや二つの出費など何ら痛くはない。
充実した気分を感じつつサクサクとしたコーン部分に取りかかると、優人よりはゆっくりと食べている雛がくすりと笑みをこぼした。
「どうした?」
「いえ、そうやってぱくぱくと食べてるところを見ると、男の人ですよねって思っちゃって」
どうやらお互いの食べるペースの違いに軽く笑ったらしく、言われて優人も自分と雛のソフトクリームを見比べてみる。
コーンの上に乗せられたクリームを早くも食べ尽くした優人と違い、雛の方はまだ半分程度残っている。優人が
雛の小さく可愛らしい舌がちろりとソフトクリームを掬う。白いクリームとは対照的な艶のある薄ピンク色に目を奪われ、両手でコーンを持ちながら食べ進める雛の愛らしい姿をまじまじと眺めてしまう。
ややあって優人の視線に気付いた雛は何を思ったのか、ほんのり眉尻を下げて舐めるペースを早めていった。
もしかして急かしてるように感じてしまったのか。
「別に急がなくていいって。この後に予定があるわけでもないんだから、しばらくここでゆっくりするのもいいだろ」
日当たりは良くてぽかぽかとしているし、時折吹くそよ風は爽快感を運んできてくれる。できるかぎり柔らかさを意識した声でそう告げれば、目元を綻ばせた雛はまた元のペースに戻った。
「そうですね。せっかく優人さんに奢ってもらったんですから、味わって食べないとです」
「大袈裟。たかがって言うのも何だけど、そんな畏まるもんでもないだろ」
「大袈裟じゃありませんよ。優人さんから貰ったもの、全部大事にしたいです」
髪を留める桜を模したヘアピンを、雛がそっと指でなぞる。
「……好きにしてくれ」
「はい、好きにします」
コーンを齧りながらの言葉は、果たして上手く取り繕えていただろうか。
いきなり心臓に悪いことを言ってくれた雛から視線を逸らし、優人は歓喜で緩みそうになる口元を誤魔化すように残ったコーンを口の中に放り込んだ。
雛の性格が義理堅いのはとうに理解している。だが、今の発言はただそれだけのことなのか。それ以上の感情もあるのではないかと、そんな風に期待を膨らませてしまう自分がいる。
未だ面と向かって確認するだけの勇気が持てないまま、緩やかに二人の間の時間は流れていく。
そのうち雛もソフトクリームを食べ終えると、より
会話はない。聞こえるのはいつしか遠い世界の出来事になったような周囲の喧噪と、お互いの息遣い。時折吹く風で頭上の桜の枝が揺れ、数枚の花弁が音も無く目の前を横切って地面に落ちていく。
「今日は、ありがとう、ございました」
なんとなく意識を吸われた一枚の行く末を目で追いかけていると、前触れもなく雛がそう呟いた。
「改まってどうしたんだよ」
「何だかそういう気分になったので。こうしてお花見に誘ってもらえて、嬉しいし、楽しいんです……」
「そりゃ良かった。というか、むしろ礼を言うのは俺の方なんだけどな。わざわざ付き合ってもらって、おまけに美味い昼飯も用意してもらえたし」
「わざわざ、なんて……思ってません。お昼だって、優人さんに……べて、ほし……」
「っと、雛?」
ぽすん、と優人の肩に与えられる温かい重み。
その感触と途切れ途切れの言葉を不思議に思い、隣の彼女へ目を向けてみれば、端正な顔立ちがすぐ近くにあった。
白い瞼は今にも閉じてしまいそうなほど細まり、その狭間から見え隠れする金糸雀色の瞳はとろりと湿り気を帯びている。呼吸のリズムも穏やか、というより一定で緩慢としたものであり、雛が夢の世界に片足を突っ込んでいるのは明白だった。
食後に加えて、朗らかなこの陽気。睡魔に襲われるのも致し方なしだろう。
可愛らしい緩み具合に優人の口元は弧を描きつつ、その眠りの誘いを妨げないようにゆっくりと雛に問いかける。
「眠いんなら寝ていいぞ?」
「……だめ、です。せっかく、の、でー……の、に……」
言葉とは裏腹に、雛の意識はどんどん深く沈んでいく。瞼は両目とも完全に閉じ、薄く開いた唇から漏れるのは凪いだ吐息と、いまいち意味の掴めない舌足らずな音。けれど込められた気持ちは察せられたから、優人はなおのこと笑みを深めた。
楽しんでくれてるのなら、それだけで十分だ。
「いいから安心して寝てろ。……そばには、俺がいるから」
こっちは誰かさんの柔らかい感触やら何やらで心臓が高鳴りっぱなしだから眠くない。そもそもこのあどけない姿を拝むことのできる垂涎の機会を自ら手放すわけもなく、優人は黙って雛のことを見守る。
「おやすみ、雛」
その言葉が最後の後押しになったのだろう。完全に夢の世界へと落ちていったのか、雛は深い呼吸を繰り返すだけになった。
「お疲れさん」
見てるだけで和む寝顔を眺めながら、優人は雛へ囁いた。
今日のお洒落もお弁当も、そして普段からの努力もひっくるめて。今日ぐらいは何の気兼ねもせずに安らいでくれたら嬉しいと、頑張り屋な彼女の頭をほんの少しだけ撫でる。
引っかかりを感じないさらさらな髪の下、いつもよりも幼く見える顔がふっと綻んだ。
(――さて、と)
ここからどうしたものだろうか。
雛のうたた寝を妨げないのは何に置いても優先すべき事項だが、正直に言うと……ちょっと体勢がよろしくない。
優人の肩にもたれかかってる体勢なだけに雛の綺麗な顔がすぐ近くまで迫り、さっきから耳元を微かな寝息がくすぐっている。衣服越しでも伝わる感触は温かく、香る匂いは甘く、そして二の腕の辺りには弾力を兼ね備えた柔らかさも少なからず感じる。
この状況、手放しで喜ぶことができたらどれほど楽だろうか。
しかしこんな状況になったのも、雛が優人を信頼してくれてるが故の結果だとも思うので、それを裏切れない身としては全力で男の本能に蓋をして何重にも鍵をかける。
「……ん、んぅ……」
幸か不幸か、寝返りを打つかのように身を捩らせた雛の頭が優人の肩を離れ、そのままずるずると落ちていこうとする。慌てて華奢な身体を支えてゆっくりと下ろした結果、雛の頭が落ち着いた先は優人の
俗に言う膝枕の完成である。立場が逆なら良かったのに。
(男の膝なんて固いだけだと思うけどな……)
細くも女性らしいしなやかさを併せ持つ雛と違い、優人の膝なんて骨ばった固いものだ。枕としての性能にはあまり期待できないだろう。
「ま、いいか」
また大きく体勢を変えるのも悪いし、そこまで寝心地は悪くないのか雛が起きる気配もない。
それにこっちの方が、愛らしい寝顔も眺めやすいのだから。
乱れてしまった髪を指先で整え、それからまた雛の頭をゆっくりと撫でる。
甘い蜜でふやけたような雛の表情。どうやら今の彼女は、さぞ幸福な夢の世界を満喫しているらしい。
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