第80話『頑張り屋さんとホワイトデー』
入念な準備の甲斐あってか、パンケーキ作りはそう時間もかからず、かつ満足のいく仕上がりとなった。
フライパンから器へ、慎重に移動させた生地はふわふわな焼き上がりを保ち、それを生クリームと縦に二等分したいちごで飾り付け、最後にストロベリーソースをかけて完成だ。
完成品を載せた器を両手で持ち、台所から雛の待つテーブルへ。いつの間にか読書をやめて待ちわびていたらしい雛は、優人の到来に目を輝かせると、いそいそと姿勢を正してクッションに座り直した。
「お待たせ」
雛に出すことを緊張して未だ胸の奥底は震えているものの、どうやら見た目という第一段階は成功したらしい。
雛の前に恭しくパンケーキを置けば、見下ろす金糸雀色の瞳はぱちくりと瞬き、それから驚きと歓喜で彩られたように見えた。
「わあ……!」
輝かしい宝石を目の当たりにしたような声を雛がこぼした。両手を合わせて喜んでいる姿にそっと安堵の息をつくと、優人は台所からナイフとフォークを持ってきて器の横に置く。
その間も放心したように眺めるだけだった雛は、優人が腰を落ち着けたところで、ようやく我に返った様子で顔を上げた。
「ありがとうございます、優人さん……! こんな素敵なものを出してもらえるなんて」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、評価を下すにはまだ早いだろ? 冷めないうちにどーぞ」
「はいっ」
元気な返事をした雛がナイフとフォークを手にする。
指摘するのも野暮なので黙っておくが、いつもは忘れない「いただきます」がすっかり抜け落ちている辺り、本当に待ち望んでくれていたのが伝わってくる。
緊張気味の胸中を少し温かくした優人が見守る中、やんわりとナイフを押し返す生地のふわふわ感に雛は一瞬目を丸くし、それからゆっくり最初の一切れを切り分けていく。
ソースと生クリームを絡めた一口目にフォークを突き刺し、はむっと口の中へ。
「――おいひぃ」
行儀の良い雛には珍しく、口の中に食べ物を入れたままの一言。思わずといった感じでこぼれた舌足らずな言葉には溢れんばかりの喜びが詰め込まれている。
咀嚼するたびに伸びていた背筋が徐々に曲がってくる姿は、こたつの上の猫に負けず劣らずの緩みっぷりだ。
パンケーキの味だけに浸るように両目を閉じて、しばらくもぐもぐと。
やがて一口目が終わったらしく、最後に白い喉をこくりと動かした雛は目を開き、純粋な眼差しを真っ直ぐ優人に向けた。
「美味しいです、本当に。最高のお返しですよ」
「……良かった。練習した甲斐があったよ」
肩の重荷が降りたような気分だった。決して雛に作ることを面倒に感じていたわけではないが、色々とやきもきしていただけに解放感が
達成感からくるため息を優人がつく一方、片側の眉を持ち上げた雛がじっと優人を窺う。
「練習、してくれたんですか?」
「え? あー……ま、まあな。ふわふわなパンケーキってのが雛のリクエストだったわけだから、それを出せるように一応」
「……そうですか」
安奈にまで助けを求めたことこそ伏せておくが、練習したことに関しては素直に白状してしまう。
静かに相槌を打った雛はパンケーキに視線を落としながら、優しく目を細め、口元に淑やかな微笑みを浮かべた。
「それでは、このパンケーキはしかと噛み締めないといけませんね」
「茶化すなよ。普通に食べろって」
「そうはいきませんねえ。最後までじーっくりと味うことにします」
別にホワイトデーみたいな特別の日でなくとも作って構わないのだが、そういう問題でもなさそうだ。
からかいなのか大真面目なのか、どちらにも取れそうな笑みを覗かせた雛は二口目に取りかかり、またふにゃりと顔全体を綻ばせる。
好きな女の子が、自分の作ったものをとても満足そうに食べてくれる様を、優人は静かに見つめ続けるのだった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様」
夕食を終えた直後とは逆の立場で言葉を交わし合い、優人はすっかり空になった器を下げる。
食後のデザートということでパンケーキの量は相応に抑えたつもりだったが、それでもお腹はかなり満たされたらしい。体勢を崩してお腹をさする雛は随分と気が抜けたようで、今夜はいつもとちょっと違う彼女を見られて楽しかったりした。
雛が食休み間に残っていた洗い物を片付ける。
そうしてテーブルに戻ると、優人を出迎えたのはむくれ顔の雛だった。
「洗い物、私が片付けようと思ってましたのに」
「食べたばっかじゃキツいだろ。それと……これはオマケな」
「え?」
荷物からこっそりと取り出しておいた品物を雛の前に置く。
ラッピング用紙に包まれた小さな長方形の物体を雛は呆然と見つめ、ややあってから戸惑いがちな視線を優人に向けた。
「これもホワイトデーのお返し、ということでしょうか?」
「そういうことだ」
「いいんですか、二つも貰っちゃって……」
「オマケって言ったろ? ほんの気持ちみたいなもんだから、まあ、気にせず受け取ってくれ」
「は、はい」
恐る恐る開封作業に入る雛。
ラッピング用紙の下から現れたのは無地の箱であり、さらにその箱を開けた雛が慎重に中身を取り出す。
「……ヘアピンですよね?」
「ああ。アクセサリーショップの店頭でたまたま見つけてな」
雛の片手に収まるサイズの小さなそれは、桜の花をモチーフにしたヘアピンだった。
見つけたのつい昨日のこと。パンケーキ用の買い出し以外にも野暮用があったので学校帰りにショッピングモールへと足を運び、何となく目を引かれた先で偶然見つけたものだ。
パンケーキが約束したものだった分、何か別のことでサプライズをしたかったからかもしれない。その時の自分の心境を思い返していると、雛は部屋の照明に当てるようにヘアピンをかざした。
「どうしてまた、これを選んだんですか?」
「ほら、最近雛って髪を伸ばし始めただろ? だから、こういうものが一つぐらいあってもいいかと思ったんだよ。あとは、雛に似合うと思ったし」
どちらかと言えば、理由の比重は後者の方が大きい。
クリスマスプレゼントがぬいぐるみという可愛いものだったのに対し、今回のは華美にならない程度の大人びたデザインになっている。
雛の清楚で落ち着きのある雰囲気にぴたりとハマると思った。
幸い、優人のセンスは雛にも理解できるものだったらしく、ヘアピンを今一度手の平に置いた雛は柔らかな笑みを浮かべる。
――そう、そういう笑顔に似合うと思ったのだ。
「良かったら、つけてみてもらえるか?」
お眼鏡にかなったのならば、それぐらいは望んでも罰は当たらないだろう。
優人の問いにニコリと唇のカーブを深くした雛は、予想外に首を横に振った。
「いいえ。優人さんには悪いですけど、つけるのはまた今度にしたいです」
「え、今度っていつ?」
「さあ、いつにしましょうか?」
とぼけたような言い回しだが、何かしら狙っている日があるように聞こえる。
だがそれがいつか分からず、ちょっとだけ不服を覚えてしまった優人が眉を顰めると、雛は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさい。でもせっかくのお披露目は――もうちょっと気合いを入れたいですから」
そんないじらしいことを言われたが最後、優人の不満など立ちどころに消え去るのだった。
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