第72話『頑張り屋さんへ伝えたい言葉』

『そちらに伺います』


 雛からそのメッセージが返ってきた後、そう時間も経たない内に優人の部屋のドアチャイムが来客を告げる。

 座って待つのも落ち着かなくて台所に突っ立っていたのが功を奏し、その呼びかけに即座に反応できた優人は玄関の扉をすぐに開けた。


「……こんばんは」

「ああ、こんばんは。来てもらって悪いな」


 優人の応対が思ったよりも早いことに面を喰らったのか、玄関を開けた先にいた彼女は金糸雀色の瞳をわずかに見開き、言葉を詰まらせながらも夜の挨拶を口にした。

 少し影を差す表情、それと帰宅してからそれなりに時間は過ぎてるだろうに、未だ着たままの学校の制服。

 ブレザーは脱いでるし胸元のリボンも緩められてはいるが、その覇気のない様子からは、着替えることもせずただぼーっとしていたことが予想された。


 それでも話に応じてくれたことに胸の片隅を痛めながらも、優人は雛を静かに部屋へと迎え入れる。


「何か飲むか?」

「お構いなく」


 先んじてソファに座らせた雛へ尋ねると、返ってきたのは短く淡泊な断り。素っ気ないわけではないけれど、どこか投げやり気味にも聞こえる声音だった。

 開けかけた冷蔵庫の扉から手を離し、優人は拳三つ分ほどの距離を空けて雛の隣に座る。


 暖房モードで動かしているエアコンの音がやけに響いて聞こえる。それほどしんと静まりかえった室内で、隣から息を吸う音がはっきりと耳に届いた。


「……それで、話って何ですか?」


 優人が横目で盗み見た雛はこちらを見ていない。視線は自分の手元に力無く落ち、口からこぼれたようなその言葉を小さなものであった。

 優人もまた雛を一瞥するだけに留め、緊張で冷たく感じる胸の奥から、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。


「昨日、俺に訊いたよな? どうしたらいいんでしょうって」

「……はい」

「あれから、俺なりに色々考えたんだけどさ……ごめん、やっぱり俺にも分からない。そもそも俺が人に語るほどの夢とかを持ってないってのもあるけど……自分がやりたいこととかそういうのって、自分自身で見つけなきゃ、本当の意味で見つかるものじゃないと思う」


 一騎にそう諭されて、改めて時間をかけて考えて、結局優人もその結論に至った。

 人生なんてのは他でもない、突き詰めれば自分一人だけが歩く、自分一人だけに与えられたものだ。決定権はそれぞれの手の中にあって、それはきっと、決して他人にゆだねていいものじゃない。


 渇きそうになる唇を何度も舌で湿らせ、優人は雛の方へと顔を向ける。


「だから、これからどうすればいいのか、自分がどうしたいのか――それは雛、お前が自分で決めるんだ」


 その一言一句をはっきりと、届けたい相手へ告げた。

 告げて数秒、雛はのろのろと顔を上げると首を傾け、その目に優人を映す。今にも輝きの消えそうな金糸雀かなりあ色の瞳は、じわりと端から潤みを帯びて、けれど瀬戸際でそれを押し止める。

 視界の下で、優人へ伸ばしかけた雛の手が、代わりに制服のスカートをぎゅっと握り締めるのが見えた。


「そう、ですよね」


 一目で分かる作り笑い。


「優人さんの、言う通りだと、思います。私の人生なんですから……私が頑張って、決めなきゃ、ですもんね」

「ああ、そうだ」


 声を震わせ、徐々に顔を俯かせながら、雛は優人の言葉を肯定していく。


 たぶん雛は、優人に言われるまでもなく分かって、覚悟していたのだと思う。だから今も持てうるもの全てを使い、溢れそうな感情を必死に堪えてその事実を受け入れようとしているのだろう。

 我ながら酷なことを言っている自覚はある。どうしたって分からないとすがる彼女に、それでもどうにかするんだと突き放しているのだから。


 そう、雛がこれから辿る道はきっと酷で、辛い。挫けたり、投げ出したくなる時が数え切れないほどあると思う。

 だから、そんな時は。


 ――ぽん。


「……え?」


 そんな呆けたような雛の声は、優人の手の下からこぼれ落ちた。何をされたか分からないといった様子で視線を上げた雛は、自分の頭に置かれた手からその根本を辿っていき、やがて優人に行き当たる。

 視線が交わった瞬間、くしゃりと空気を含ませるように小さな頭を撫でると、雛の目は少しくすぐったそうに細まった。


 人からの受け売りはここまで。

 ここからが、天見優人が、空森雛に、伝えたい言葉だ。


「代わりにこれからは、もっと俺に甘えてくれ」

「……あま、える?」

「ああ。本当にやりたいことを見つけるのってもちろん難しいだろうし、見つかったからってそれでゴールってわけでもない。むしろそっからが本番で、大変なことが山ほど待ってると思う」


 たぶん優人が想像するよりもずっとだ。

 例えば、『人生』というものが長いマラソンだったとする。途中で向かい風に吹かれたり、キツい坂道に差しかかったり、足が痛くなったり、もしくは誰かから妨害されるなんてこともあるかもしれない。待ち受ける苦難は大きいのや小さいのを数えればキリがない。


 それを前に立ち止まったり、膝を突いてしまったり、いっそ引き返したくなる時だってあるだろう。


「だから辛くてめんどくさくなったりした時は、俺に言ってくれ。雛が元気になれるように――また何か、甘いものでも作るからさ」


 疲れた時には甘いものを。代わり映えのない自分の手札に少し呆れてしまうけれど、優人が唯一自信を持ってできることがあるとすれば結局これだけだ。

 マラソンのゴールになることはできなくても、途中にある給水所ぐらいになら、きっと。


「……いいんですか、そんなこと言って」


 こんな時でも手触りのいい群青色の髪は優人の手でやんわりと押し潰され、前髪のベールで目元を隠した雛が呟く。


「そんな優しくされたら、私……たくさん甘えちゃいますよ?」

「ああ」

「あれ食べたいとか、これ作ってとか……いっぱいわがまま、言うかもしれませんよ……?」

「むしろお前はもうちょっとわがままになってもいいだろ」


 また頭を撫でて、笑いながら優人は言ってのける。わがままを言う雛なんて見れるものなら見てみたいぐらいだ。

 何を言われたって優人の意志は変わらない。雛が本気で嫌がりでもしないかぎり、これっばかりは譲らない。

 人よりも真面目で、努力家で、義理堅くて、世話焼きで、そのくせ本当に辛いことは一人で抱え込みがちな女の子。


 そんな頑張り屋で甘え下手な彼女を、支えてあげたいと思っているのだから。


「……優人さん」

「ん?」

「……なら、さっそく甘えても、いいですか?」

「もちろん」


 そう答えた直後、優人の胸に雛が身体ごと飛び込んでくる。もう堪えきれなくてと言わんばかりにすり寄ってきた彼女を全身全霊で受け止めれば、優人の胸元から微かな嗚咽が聞こえ始めた。

 あまり人に聞かれたいものではないと思うけれど、悪いが優人の両手には自分の耳を塞ぐ余裕なんてない。


 飛び込まれた拍子に外れてしまった手はもう一度頭に、もう一方の手は折れてしまいそうなほど細い腰に回して、雛のことを優しく抱き締める。

 甘えてくれと願った。甘えさせてとわれた。

 想いの凹凸おうとつがぴったりとはまった以上、もう何も迷うことはなく、優人は腕の中で震える華奢な身体をよりいっそう優しく抱き寄せる。


 彼女が自分へ晒け出してくれる何もかもを、全て余さず包み込むように。









「ごめんなさい、涙の跡が付いちゃいましたね」


 しばらくすると泣き止んだ雛は顔を上げて、ほんのりと赤く染まった目元を隠すこともなく、恥じらいながら優人の胸の辺りを指でくすぐる。

 優人の着ている部屋着の色が明るめなのもあると思うが、確かにぽつぽつとシミのようなものができていた。けれどそれだけ雛が感情を発散させてくれたことの証明なのだから、優人にとっては勲章みたいなものだ。


「気にするな」と頬を撫でると雛の表情はふにゃりと崩れ、すっかり生気が戻って血色の良い朱色に染まった肌からは、抜群のなめらかさと温もりが伝わってきた。


「何か飲むか?」

「では、ホットミルクをお願いします」

「よしきた」


 失った分の水分を補給した方がいいかと思って尋ねると、今度の返事は間髪入れずの明るい要望だった。

 さっそくそれを叶えるべく腰を上げようとした優人だが――


「……雛?」

「何でしょう」


 ひしっ、とコアラのように擦り寄られては上げられるものも上げられない。


「その、一旦離れてもらっていいか? さすがにこれじゃ作りに行けないから」

「むう、まだこうしていたいです」

「そ、そうか」

「でも優人さんの作ったホットミルクも早く飲みたいです」

「どうしろと!?」

「だから言ったじゃないですか、いっぱいわがまま言いますよって」

「いや物理的に無理なんだが!?」


 分裂しろとでも言うのか。雛のお願いはできるかぎり聞き入れてあげたいと思うけど、どうあがいても不可能なのは勘弁してもらいたい。

 しかし甘えてくれとカッコつけた手前、頭ごなしに断るには難しく、優人の慌てる反応を見てくすくすと楽しそうに笑う雛は間違いなくわざとなのだから余計にやり辛い。


 結局現状維持が勝ったらしい雛から服を引っ張られ、優人はソファに座り直す。いそいそと優人の腕の中に収まった雛は優人を見上げると、可愛らしく小首を傾げ、唇を柔らかく弛ませた。


「ねえ優人さん、もし私にやりたいことができた時は応援してくれますか?」

「当然だろ。全力で応援するよ」

「……えへへ、凄く嬉しいです」


 そう言って可愛らしいはにかみを見せた雛は、とても満足そうに身体を預けるのだった。

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