第73話『頑張り屋さんのやりたいこと』
暦が三月へと移ったある日の日曜日、ベランダから見上げた空には綺麗な青が広がっており、テレビの天気予報が告げる今日の平均気温も、じきに到来する春を予期させるような穏やかなものであった。
こんな日はぶらぶらと散歩してみるのもいいかもしれない、と今日の予定の一つとして考えながら洗濯物を干し終え、午前中はテレビを見たり読書したりとゆったりと過ごす。
そして正午を回ったお昼の十二時台、外に出た優人はその足ですぐ隣の部屋へと赴き、玄関脇のドアチャイムを押し込んだ。すぐに「はーい!」と明るい返事が来たかと思えば、開かれた玄関の奥から現れたのは満面の笑顔を浮かべる一人の少女だった。
「約束通りご馳走になりに来たよ。邪魔するぞ」
「はい、いらっしゃい優人さん。下拵えは終わってるので、すぐに出来立てをご用意しますね」
お昼は作るから一緒に食べませんか――そんなお誘いを雛から貰ったのは昨日のことであり、ほぼ二つ返事で了承した優人はこうして彼女の部屋を訪れている。
ずいぶんと嬉しそうに出迎えてくれる笑顔に優人も微笑みつつ、どこかふわりと甘い香りも感じる雛のプライベートスペースに足を踏み入れた。
まず目についた台所には細かく刻まれた食材が並べられており、材料から考えるに今日はオムライスでも振る舞ってくれるのだろう。
さっそくエプロンを身にまとった雛はヘアゴムを取り出すと、このアパートに来たばかりの頃よりも伸びた群青色の髪を頭の後ろでまとめる。女の子らしい仕草に少し目を奪われる中、視線を感じて振り返ったであろう雛は、立ち尽くす優人を見てきょとんと首を傾げた。
その無垢な姿が、ここ最近は特に可愛らしく思えて仕方がない。
「どうしました?」
「何でもない。テーブル片付けとくぞ」
濡らした台拭きを持って逃げるようにテーブルへ。「すいません、ちょっと散らかってて」と苦笑する雛の言う通り、食事で使うローテーブルには色々と物が置かれていた。
文房具やノート、参考書、この間のテストの答案等々。
「……なあ、午前中は何してたんだ?」
「この前のテストの復習ですね。改めて自分の答案を見返してみると、何でこんなミスしたんだろうって馬鹿らしく思えてきますよ」
調理を始める背中に声をかけると、雛は冷蔵庫から取り出した卵をボウルに割りながら、あっけらかんとした態度で答えた。
特別何か気負っているようには見えない。見えないが、数日前が数日前だけにやはり心配になってしまう。
「勉強は大事だけど、その、あまり無理はするなよ?」
これまでの雛の努力を否定することになりかねないので強くは言えないし、長年の習慣というものは簡単に抜けないだろうけど、無理をしてまで高い成績を維持する必要はないはずだ。これまでのことも考えれば、しばらくはゆっくり休んでもいいんじゃないだろうか。
そう思いながら雛の顔を窺うと、ボウルの中の卵を菜箸でかき混ぜる雛は視線を手元に落としたまま、すうっと目を細めた。
「それについてなんですけどね優人さん、実は私、すごーく怒ってることがあるんです」
「……え、俺なんかやった?」
ひやっと背中が冷たくなる。
心当たりこそまるで無いが、珍しく研ぎ澄まされた雛の目を見れば相当ご立腹なのは明白。
もしかして数日前、雛を慰めるためとはいえ恋仲でもない彼女を不用意に抱き締めたことが原因だろうか。正直途中からは雛の温もりや柔らかさを少しばかり意識が割かれていた節はあるので、もしそれに関してだったら平謝りしかない。
だが幸いなことに、雛は戦々恐々としてる優人の内心とは裏腹に「優人さんにじゃありませんよ」と首を横に振った。
「私が怒ってるのはですね、私の成績が落ちた原因が優人さんにあると思ってる人たちに対してですよ」
「え、それ?」
「当然じゃないですか。ただでさえ優人さんは色々と私に気を遣ってくれるのに……そんな人が悪く言われるなんて納得いきません。第一、普通に考えておかしいじゃないですか。成績が落ちたのは単純に私が不甲斐なかっただけなのにそれを他ならぬ優人さんのせいにするだなんて何だってそういう見当違いな結論に行き着くのかもう小一時間ぐらいきっちり問い詰めてやりたいぐらい――」
「分かった、分かったからちょっと落ち着け雛」
とりあえず卵に罪はないのだから、菜箸の勢いを弱めてあげてほしい。
ヒートアップ気味な雛を宥めるように両手を前にかざすと、我に返った雛はこほんと咳払いをし、黄身と白身が十分過ぎるぐらいに混ざり合ったボウルを台所に置いた。
かと思えば、優人に向けて二本の指を立てて見せる。
「とにかく私、二つ決めたことがあります」
芯の通った揺るぎない声音。ピンと立った人差し指と中指の内、まず中指が折り畳まれる。
「まず一つ、二年生になって最初のテストでぶっちぎりの一位を穫ります」
「ぶっちぎり?」
「ええ。いっそ歴代の記録を塗り替えるぐらいの点数を叩き出してやりますよ。そして二つ」
人差し指が折り畳まれる。
「これはまあ、優人さんに許可を貰った上にはなりますけど……その、これからはもっと、学校でも優人さんと仲良くしていきたいです」
「俺と?」
「はい。学年が違う以上は限界もありますけど、例えば登下校とかお昼とか、もっと一緒にいる時間を増やしていければなと」
「……えーっと」
雛が提示した二つの決め事。その二つをどういう意図の下で成し遂げようとしているのか、一応見当は付いたのだが……これはかなり自惚れた考えになるのではないか。
しかしそれ以外に理由が思い付かず、気恥ずかしさで熱を持ち始めた頬を掻きながら優人は自分の予想を口にする。
「つまり、雛の成績が落ちたことと俺の存在は無関係だってことを、分かりやすく証明するためってことか……?」
「です」
まさかの正解だった。
なるほど筋は通っている。優人といるから雛の成績が落ちたという邪推に対し、より親しくなった姿を見せた上で成績を上げることができれば、その事実はこれ以上はない反論材料になることだろう。
ましてや雛本人の希望なので、二つ目の決め事にだってもちろん優人は協力したい。だが、どうにも首を縦に振るのを躊躇ってしまう。
だって、結局雛に負担をかけてしまうことに他ならないのだから。
「気持ちは嬉しいけど、別に俺のことは気にしなくていいんだぞ? 言いたい奴には言わせておけよ」
ここ数日も校内を歩いていると、時折優人に悪感情を抱く視線を感じる時はある。そういった視線が煩わしくないと言えば嘘にはなるが、所詮顔も名前をろくに知らない赤の他人だ。
そっちがそれならこっちも同等のスタンスでいるだけだし、一騎やエリス、小唄など親しい間柄の人たちは変わらない態度でいてくれるから問題ない。
何より、こうして優人以上に怒りを露わにする雛が見れただけで溜飲はもう十分に下がった。
だが雛はどうにも納得がいかないらしく、尚も頬を焼けた餅のように膨らませていた。
「……もちろん私だって、全ての人から好かれるようにとまでは思いませんよ。でも、優人さんのことをよくも知らない人が好き勝手に言って、それをただ見過ごすなんて私にはできません。だから私に出来ることをする、それだけの話です」
「雛……」
目頭と胸の奥が熱くなる。優人の潔白を証明するため、自分から進んで行動に移してくれる――それだけ好ましく想われてるという事実だけで、もう本当に十分だった。
言いたいことを言えてある程度すっきりできたのか、ようやく表情を崩した雛は淡く、そして柔らかな笑みを浮かべる。
「心配しないでください、ちゃんと無理のない範囲で頑張りますから。それにこれは、私の
「……分かったよ。なら応援しないわけにはいかないな」
「ふふ、約束ですもんね」
雛にやりたいことができた時は全力で応援する。これはその一歩目といったところだろう。
軽やかな笑みを覗かせて調理に戻った楽しそうに揺れる背中を、優人は満足げな吐息をこぼして見守るのだった。
「今日は本当に天気が良いですねえ」
春を先取りしたような昼下がりの陽気の中、優人の隣を歩く雛は眩しそうに空を見上げる。
昼食をご馳走になった後、午後は散歩にでも行こうかと思ってると優人が言えば、何故か「私も行きます!」と雛が意気込んで付いてきた。
もちろん一人で歩くよりも誰か、というより雛と一緒というのは大歓迎だし、午前中は勉強していた雛の気分転換にももってこいだと思うのだが、やけに乗り気な態度には少し首を傾げてしまう。
そしてそれは態度のみならず、雛の外見にも如実に現れていた。
「近くをぐるっと回る程度なんだから、別に着替える必要はなかったんじゃないのか?」
レースをあしらった水色のワンピースの上から真っ白な長袖のカーディガンを羽織ったのが、今の雛の格好だ。暖かい陽気に相応しい爽やかな服装であり、家にいた時は眼鏡だったのもコンタクトに切り替わっている。
ストッキングに包まれたしなやかな両足が歩を刻むたび、膝丈のワンピースの裾が揺れて清楚な雰囲気を醸し出していた。
腰の後ろで手を組んだ雛がほんのりと唇を尖らせる。
「いいじゃないですか、そういう気分なんですから。それに優人さんだって着替えてますし」
「……俺はほら、上下ジャージだったろ」
歩きながらちょっと前のめり、優人の斜め前から上目遣いで見上げてくる雛から視線を逸らし、優人は言い訳のように呟いた。服装こそジーンズ、シャツ、セーターと簡素であるが、清潔感があるように整えたつもりだ。
部屋着として着ていたのはスポーツ系のジャージだったので、そのまま外に出てもそこまで見苦しくないとは思うが……隣を歩く少女のことを考えると意識せざるを得なかったのだ。
微妙に気になる前髪をちょいちょいと指で直していると、雛はくすりとほのかに笑う。
「いいと思いますよ。優人さんカッコいいです」
「……雛もな」
「も、では分かりませんねえ」
「……よく似合ってる。可愛い」
「えへへ、ありがとうございますっ」
若干言わされた感はあるが、「着替えた甲斐がありました」なんて付け足されてしまえば可愛らしさで何も言えない。
早くなる心臓の鼓動を宥めつつ、雛とゆっくり散歩を続ける。
「んー……気持ちのいい風ですね……」
横断歩道で信号を待つ傍ら、そよそよと吹く風に身を委ねる雛。なびく髪をそっと手で押さえ目元を緩める姿は、映画のワンシーンを切り取ったかのように絵になる。
そのせいでつい目を奪われてしまい、いつの間にか変わった青信号で先に歩き出した雛は、動かない優人を振り返って「優人さん?」と眉を
「あの……私、何か変なところありますか?」
「え?」
「さっきも今も、何だかじっと見られてるみたいなので……」
慌てて優人も歩き出して肩を並べると、雛からそんなことを恐る恐る尋ねられた。
さっきもと言うことは、調理の時に髪をまとめる雛を見つめていたことも引っかかっているらしい。
「いや、変とかじゃなくてさ、雛の髪が前より少し伸びたよなって思って」
「ああ、確かにそうですね」
納得して頷いた雛が自分の髪を指で弄ぶ。初めて会った頃は両サイドだけがやや伸びたショートカットだったが、今は後ろ髪の毛先も肩口に近付きつつある。髪の伸びる早さには個人差もあるらしく、雛は平均よりも早い方なのだろう。
「実は伸ばしてみようかと思ってるんですよ」
「へえ、何でまた」
「……まあ、攻略するにあたって選択肢は増やしておいた方がいいかなあと」
「攻略?」
「ふふ、これ以上は内緒でーす」
人差し指を口に当てた雛が悪戯っぽい笑顔を優人へ向ける。どこか蠱惑的な色も帯びたその笑みにドキリと心臓が高鳴る中、急に瞳を輝かせた雛が優人の服の袖を引っ張った。
「優人さん、あれあれ、あそこ寄りましょうよ!」
くいくいと引っ張られて来たのは、数日前にも訪れたあの公園だ。
どうやらお目当てはブランコだったらしく、さっそく腰掛けた雛はゆらゆらとブランコを前後に揺らし始める。
童心に帰って遊ぶのは結構なことだが、膝丈とはいえ雛の服はワンピース――つまりスカートだ。前から眺めるのは色々と危ういので、背中側に回った優人は楽しそうにブランコを漕ぐ雛を見守る。無邪気に遊ぶ姿を眺めていると、もっと楽しませてあげたくなってくるから不思議だ。
「どうせだったら後ろから押してやろうか?」
「いいんですか? じゃあお願いします」
「了解。しっかり掴まってろよ」
「はいっ。えへへ、やっぱり優人さんは優しいですね」
笑いながら呟かれた褒め言葉に、優人は静かに苦笑を浮かべた。
そうやって褒めてくれるのは嬉しくもあるけれど、優しいというのは、たぶんちょっと違う。
優人は本来人付き合いに消極的な方だし、誰彼構わず優しさを振りまいてるつもりもない。
そんな自分が目の前の少女には進んで手を貸してしまうのもきっと、それが自然であるぐらい彼女に惹かれているからなのだろう。
『代わりにこれからは、もっと俺に甘えてくれ』
あの日、雛に伝えた言葉はまさしく言葉通りの意味だ。
他の誰でもなく、自分に甘えてほしい。
いつしか芽生えていた独占欲をそっと胸に秘め、優人は雛の背中を強く、優しく押す。
明るい笑い声。ブランコが前へ浮かび上がる度、綺麗な青空を背景に、雛の着るカーディガンが風を受けて大きく広がる。
――それはまるで、これから先の未来で何色にだって染まることのできる、大きな白い翼のようだった。
≪後書き≫
日々のご愛読並びに☆☆☆評価や応援コメントなど、まことにありがとうございますm(_ _)m
今回の話で第1章が完、次回からは第2章が始まります。
ようやく『頑張り屋で甘え下手な後輩が、もっと頑張り屋な甘え上手になるまで』というタイトルの前半部分が終わったぐらいの感じなので、次回からはその後半部分――甘えるようになった雛と優人のじれじれ恋愛模様をお楽しみ頂ければなと。
ただ明日からは書き溜めの都合上更新頻度を落とし、しばらくは一日一回の更新でいきたいと思います。完結まで書き上げますので、今後もよろしくお願いします。
よろしければ励みになりますので、まだの方も☆☆☆評価や感想などを頂けると幸いです!
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