第66話『頑張り屋さんは我慢ならない』
今日最後の授業である六限目。テストも終わったことで教師含めてどこか弛緩した空気であっても、優人の険しい顔付きが晴れることはなかった。
あの後、騒ぐ一年生たちの会話をかいつまんだおかげで雛の正確な順位は分かった。
二十一位――成績優秀者の一覧にはギリギリで載らなかった形だ。
どうして。
さっきからそんな疑問ばかりが延々とループしている。
前回の二学期期末テストだって雛は首位から三位に落ちたけれど、点数にすればわずか十点か二十点そこらの話だ。だが、今回はその比ではない。
平均的に見れば十分に高い順位であっても、今までの雛の成績を考えると何かあったとしか思えないほどの順位の後退だ。
では何が?
優人が知り得ている最近の雛の動向を最大限、つぶさに思い返してみても原因が分からない。
体調を崩しているような素振りはなかったし、試験勉強で大きく
優人が気付いていなかっただけ? それとも何かしらの不調を、雛が誰にも悟らせずひた隠ししていたのか。
(くそっ……)
机の下で爪が食い込むぐらいに拳を握り締める。
事実を突き止めるにも情報が足りず、じれったさだけ優人の胸中を支配していた。
とにかくまずは雛本人から話を聞かないと埒が明かない。そしてそのための行動にはすでに移っている。
授業中の教師の目を盗み、制服のポケットからスマホを取り出す。
昼休みの間に『放課後は図書室で勉強か?』というメッセージを雛に送り、『今日はまっすぐ帰ります』という返答も貰っている。
本音を言えば授業そっちのけで雛と話をしたい気分だが、きっと色々とデリケートな話題だろうから、ゆっくりと腰を落ち着けられる場所の方が相応しいだろう。
また何か、温かい飲み物でも用意して。
授業終了のチャイムが鳴り、幸いなことに六限を受け持っている教師がクラス担任だったのでそのままホームルームへ。それも終わって手早く帰り支度を整えていると、一騎がこちらに歩み寄ってくる。
「なあ優人、部活休みだからたまにはどっか寄ってかないか?」
「悪い、今日は用事があって――」
優人のそんな返事を遮るように、校内放送が流れる合図である電子音がスピーカーから流れる。
『生徒の呼び出しを行う。2ーA天見、放課後、生徒指導室へ来るように』
「は?」
虚を突かれて見上げたスピーカーから流れるのは、自分を呼び出す聞き覚えのない男性教師の声。同じ内容をもう一度繰り返すと放送はぶつりと切れ、優人と一騎の間にしばしの沈黙が訪れる。
「用事って今のことか?」
「違う。呼び出されるようなことをした覚えなんてないぞ」
呼び出しを喰らうだけならまだしも、生徒指導室という場所の指定には首を捻るしかなかった。文字通り生徒への指導を行う一室であり、素行不良などの問題でも起こさないかぎり普通なら何の用もない場所だ。
時には生徒のカウンセリングで利用することあるらしいが、どちらにしてもやはり優人には心当たりがない。
「お前、何かしたのか?」
「だから違うっての! ……悪い、行ってくる」
よりにもよって、こんな時に。
一刻も早く帰りたい優人の邪魔をするかのような呼び出しに苛立ち、全く関係のない一騎への語気すら荒くなってしまう。
そんな自分を思い直してぽつりと謝罪を口にし、鞄を引っ掴んだ優人は教室の出口を向かった。
ならまた今度な、と気に障った素振りもなく背中にかかる一騎の声に一抹の申し訳なさを覚えつつ、優人はまだ人もまばらな廊下を大股で進んでいく。
苛立ちばかりが募る。
雛への心配、訳の分からない呼び出しへの疑念、無関係な友人に八つ当たりのような言葉を浴びせた罪悪感、様々な想いがごちゃごちゃと。
何だか知らないが、適当に聞き流してさっさと帰ろう。
とにかく最優先とする目標を一つに絞り、優人は足早に生徒指導室へと向かった。
「……つまり、俺が空森の足を引っ張ってるって言いたいんですか?」
適当に聞き流すと、そう決めたはずだったのに、自分の胸の奥からこみ上げた淀んだ感情を吐き出さずにはいられなかった。
「いやいや、何もそう決めつけてるわけではないよ。ただ、もしかしたらの話もあるかもしれないから、少し考えてみて欲しいというだけさ」
(どうだか)
生徒指導室内のパイプ椅子に腰を下ろす優人は、長テーブルを挟んだ対面の席に座る教師を冷めた目で見た。
言葉こそ穏便に取り繕ってはいるものの、その目は優人を訝しむように観察している。虫の居所が悪い自分の被害妄想かもしれないが、呼び出された理由を考えればそう的外れでもないだろう。
一年の学年主任らしい目の前の教師によってこの一室に呼び出された優人の現在の立場は、言うなれば被疑者といったところか。
教師の話をまとめるとこうだ。
今回、テストの順位を大幅に後退させた雛。やはりテスト当日は体調不良といった様子もなかったらしく、日々の授業態度にも特別変化はないとのこと。
となれば、何か他に原因があるのではないか。
例えばそれは、周囲の環境の変化。
例えばそれは――人間関係。
その話に至った時、まず槍玉に上がることになったのが優人というわけだ。
優人と雛が学校でも少しずつ関係を持つようになったきっかけは一月のマラソン大会、およそ一ヶ月と少し前の出来事。本来はもうずっと前からの間柄ではあるが、周囲からすればそれが二人の関係の始まりだ。
なるほど時期だけを見れば当たらずとも遠からず。一見すると無愛想な男の先輩と関係を持ち始めたことが、雛に悪影響を及ぼしたのではないかとこの教師は疑いを持っているわけだ。
何せ雛は、成績トップクラスの模範的な生徒。有名大学にでも進学すればそのまま学校の
……優人自身、自分が人から好かれやすいタイプではないという自覚は持っている。
だから、理屈としてはまあ分からなくもない。分からなくもないけれど。
(ふざけんな)
そんな見当違いの疑いを持たれて平静でいられるほど、優人は大人になれない。
自意識過剰と思われるかもしれないが、正直そこら辺の奴らよりはずっと雛と親しい自信があるし、雛のことを優人なりに気遣っている自負だってある。
なのにまるで、それこそタチの悪いナンパ男と同列に扱われるのは、はらわたが煮えくり返るような気分だ。
しかしそれを目の前の相手にぶちまけたところで、余計に悪印象を持たれるだけだろう。だから最低限の体裁は維持して、優人は教師に向けて口を開く。
「疑われるようなことはしてませんよ。空森とはすれ違ったら軽く会話するぐらいですし、彼女の勉強の邪魔をしたことはありません」
「んー、しかしなあ……この間、図書室で勉強中の彼女に勉強の振りをしてしつこく絡んだ男子生徒がいるという話も聞いているんだよ」
「……俺じゃないですよ。そりゃ現場にはいましたけど」
むしろ見かねて注意した側だというのに。
この教師が曲解したのか、それとも伝えた相手の伝え方が悪かったのかは知らないが、こうも肝心な部分を勘違いされては呆れ返ってしまう。
そう、優人は決してそんな無礼な真似をしない。雛の足枷になるようなことなんて、万が一にも――。
(……本当に、そうなのか?)
教師と話を進める内に、いつしか疑念が芽生えた。
雛は優しい。ひょっとしたら優人が気付いてないだけで、心の底では不満を抱えていて、なのに遠慮して我慢しているだけなのかもしれない。そういった精神的ストレスが、今回の結果を引き起こしたのかもしれない。
そんなはずはないと優人が主張しても実際のことなんて分からない。
だって、雛の胸の内は彼女しか知りえないのだから。
……一度、距離を置いた方がいいのかもしれない。
的外れだと思っていた教師の主張が、少しずつ真実味を帯びてきたように感じて、優人は黙って目を伏せる。握り締めてばかりだった手もいつの間にか力無く開いていた。
「天見だって四月からは受験生だ。自分の勉強に集中した方がいいんじゃないか?」
優人のことを考えたようで、実際は『雛から距離を置け』という意味合いの教師の言葉。
そうかもしれませんね、と優人が思わず頷きかけた――その瞬間だった。
前触れもなく生徒指導室のドアが勢いよく開かれ、そこから現れた人物は躊躇うことなく室内に足を踏み入れる。
「……雛」
学校では控えていた呼び方が口を突いて出てしまったのは、彼女の乱入があまりにも予想外だったからだ。
静かに距離を詰める雛を呆然と見るしかできない優人に対し、教師は驚きつつも身体の向きを変えて口を開く。
「どうしたんだ空森? 悪いが今はこの天見の面談中でな、関係のない人には席を外しておいて欲しいんだが……」
「関係ない? 私の成績に関する話でもあるのにですか?」
冷徹な雛の指摘に、室内が水を打ったかのように静まり返った。
「すいません。盗み聞きはよくないと思いますが、話は途中から聞いていました」
一体いつから。それは定かではないが、優人が呼び出された理由については察しがついているらしく、雛は椅子に座る優人に寄り添うようにして教師と相対した。
傍らにある微かな温かさに安らぐようで、今の雛が放つ威圧感を肌で感じて落ち着かなくもある。
大の男である教師すらもひくりと頬を引きつらせ、少しの間、静寂が場を支配した後。
「ありがとうございます、先生」
場の雰囲気にそぐわないような柔らかな声音を雛が奏でた。
恐らく予想とは違ったであろうお礼に目を丸くする教師に構わず、雛は言葉を続ける。
「私のことをご心配してくださったようで、色々と気を回して頂いてありがたいです」
「お、おお、そうか。何たって空森は優秀な生徒だからな、当然の話だろう?」
拍子抜けしたように表情を緩める教師。
けど、それはまだ早い。
優人には分かる。耳で聞くだけなら柔らかなその声音の裏側に、烈火のような怒りが内包されていることを。
「本当にありがとございます。――ですが、今回私の成績が落ちたことに関して、この人は何一つ関係ありません」
「や、しかし、この前図書室で絡まれたという話も」
「人違いです。決してそんなことするような人ではありませんし、それどころか助け船を出してくれました」
「……そうなのか?」
「はい。ということなので、もう退席しても構いませんね? それと今後こういった話は、私
それが締めくくりとなった。
教師が「……よろしい」と一言だけ絞り出すと、雛からそっと手首を取られて立ち上がるように促される。
そのまま振り返ることもなく生徒指導室から出ると、廊下にはこちらの様子を窺う生徒が複数いた。
タイミング的に雛は自分の教室からここまで直行してきたと思うが、その際に何人かは付いてきたのだろう。
集中する視線をぐるりと見返す中、優人は曲がり角の陰からこちらを見ている一人の生徒に気付く。
図書室で雛に無礼を働いた、あの男子。優人と目が合うと、彼はすぐに顔ごと視線を隠した。
ああそうかと、直感的に察する。図書室の一件を、優人が悪者のように教師に告げ口したのはたぶん彼だ。注意されたことに対する腹いせといったところか。
もちろん確証はないから違うかもしれないが、別に真偽なんてどうでもいい。優人にかけられた疑いを、雛が力尽くでねじ伏せてくれただけでもう十分だ。
優人の手首に添えられていた雛の手が動く。手首からその先、二人の手の平同士を合わせてぎゅっと繋がせる。
まるで、周囲に見せつけるように。
そうして優人の方を振り返った雛は、いつも家で見せる親しみの込められた笑顔を浮かべて見せた。
「帰りましょう、
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