第65話『頑張り屋さんとの勉強会(後編)』
「ずいぶんと数学に力を入れてますね」
休憩を終えた後、つつがなく再開されることとなった試験勉強。休憩前とは教科を変えて数学の問題集に取り組むべく用意すると、それを見ていた雛が呟いた。
「何か変か?」
「いえ、この間の図書室でも数学でしたから、何となく」
「数学が一番苦手なんだよ。暗記科目は元からそこそこ点を取れてるし、今回は得意を伸ばすよりも苦手を克服しようかなと」
「なるほど、いい心がけだと思います」
合点がいったように雛は頷く。
雛に触発されたせいか、今回のテストはいつもより高い順位を狙おうという気概が優人には芽生えていた。
しかし、元々それなりのものを獲得していた得意科目の点数は頭打ち感があり、それなら苦手な科目を伸ばす方向にシフトしようと考えた結果がこれだ。
その点、平均点以下だった数学は格好の的。苦手意識が先行して数学の試験勉強自体敬遠していたところもあるので、本格的に取り組み始めた今となっては中々の手応えを感じている。
優人にしては珍しく教師に質問したり、休み時間に成績の良いエリスから
「優人さんって文系ですか?」
「根っからのな。何せ数学が嫌で文系を選ぶぐらいだ」
「何ですかそれ」
くすりと小さな笑みをこぼす雛。
苦手科目なんてなさそう、あっても努力して克服しそうな雛からして見れば情けなく思えるかもしれないが、こちらとしては割と真面目だ。
「逆に雛は理系か?」
「ですね。文理の選択もそうしたので、二年からは理系クラスです」
「やっぱりな。何か見た目からしてそんな感じがする」
「と言うと?」
「真面目な雰囲気とか。あと眼鏡が似合ってるところとか」
「似合ってるんでしょうか。中学の頃、学校で眼鏡してたら野暮ったいなんて言われたことありますけど」
「そうか? 俺は知的美人って感じでいいと思うけどな」
「……また、そういうことを」
「え?」
「いえ……そ、そういう不意打ちは、やめて頂けると……」
「不意打ち?」
「何でもないですっ」
何やらむくれてしまった雛は尖らせた唇をすぐにマグカップで隠し、少しだけ残っていた中身を一気に飲み干す。
ただ単に事実を言った身としてはよく分からないが、中学時代に雛を野暮ったいと評した彼、もしくは彼女にこそ眼鏡が必要ではなかろうか。
「まあ見た目云々はさておき、どうして理系にしたんだ?」
「……どうして、と言われても正直理由に困りますね。これと言って科目の不得意もありませんし。強いて言うなら、一般的には理系の方が就職率など高いみたいなので」
「就職率ねえ」
雛らしい真面目な考えに脱帽である。
「……優人さんは将来のこと、もう考えていたりするんですか?」
「俺?」
不意に尋ねられて聞き返せば、雛は神妙な様子で頷く。
将来――自分たち高校生に関して言えば、卒業後の進路が目下の課題になるだろう。
進学か、それとも就職か。
そういった未来の自分を想像する時、決まって優人の脳裏を
それは母のように、パティシエとして働く自分の姿。幼い頃に漠然とではあるが思い描いていた、それこそ遠い夢のような未来予想図。
母である安奈みたいになりたいと、そんな風に目を輝かせていた時もあったけれど――今は。
瞑目して自分の頭の中のスイッチを切り替えると、優人は自嘲するような薄い笑みを張り付ける。
「我ながら情けない話だとは思うけど、正直ほとんど考えられてない。普通に進学になるだろうけど、どの大学にするかとかはまだ全然な」
仮に大学に通うとして、もちろん学費を始め金銭的に色々と入り用だ。そういった点に関しては両親共々、優人の選択を後押ししてくれると言ってくれるが、だからこそ軽はずみに選んでいいわけがない。
そう思って自分なりに色々と考えてはいるつもりだけど、結局答えが出ていないのが優人の現状だ。
何を思って尋ねられたかは分からないが、到底雛の参考にはならないだろう。
「雛こそどうなんだ?」
「……私も、優人さんと同じですよ。具体的なことは何も」
「そうか。まあ、そう簡単には決まらないよな」
自分と違い、雛はまだ高校一年生だ。焦って答えも出す時期でもない。
そう思って淡泊には返したけれど、意外だと感じる気持ちも少なからず優人の中にはある。
毎回の定期テストでトップ層を維持する雛の勤勉さ。先ほど文理選択の話の時も感じたが、てっきり目標とする大学なりがあるから、そのために努力を重ねているのだとばかりに思っていた。
だから自分と同じように宙ぶらりんである雛が、優人には同じ悩みを抱える親近感よりも違和感を覚えてしまう。
(って、ちょっと考えればそりゃそうか……)
今の日常に慣れて最近忘れがちだったが、そもそも雛の一人暮らしの始まりは家出という行いからだ。結局家賃や生活費は向こうが負担してくれているらしいから半ば容認されたものとはいえ、雛と彼女の親との間に何かしらのわだかまりがあることに変わりはない。
優人が当たり前に受けられる親のサポートも、雛にとっては大きな問題点になるのだろう。
「――さてと、世間話もこれぐらいにして、そろそろしっかり集中しましょうか」
「だな」
小さく握り拳を作った雛の意気込みに応え、優人は姿勢を正すと開いたページに目を落とす。
将来も大事ではあるが、まずは目前に迫ったテストを片付けなければ。
会話が止んで静かになった室内に再び二つのシャーペンの音が断続的に響く。
その片方は時折深く考え込むように、止まる時間が多かった。
学年末テストが無事日程通りに終わり、それからさらに数日後の昼休み。
答案の返却を経て中庭の掲示板に貼り出されるのは、各学年の成績上位二十名までの名前を記載した順位表。
自分はどうだ、誰が何位だ、いつもならそんな話題で騒ぐ人だかりも一年生を筆頭に今回ばかりは毛色の違う盛り上がりを見せていた。
けれどそのざわめきも、初めて二桁の順位を獲得した自分の成績も、今の優人には何もかもがどうでもよかった。
――否、それ以上に優人の頭を埋め尽くす事実があった。
「なん、で……」
渇いた呟きがこぼれる。
それだけを嫌にはっきりと耳が拾ってしまうぐらい、周囲の騒々しさがどこか遠い世界の出来事のように思えてしまう。
なんで。
もう一度、頭の中で唱えただけの問いには、無論誰一人として解を示してくれない。
見落としがあるのかと、何度見返しても事実は変わらない。
一年生の一位から二十位まで、目を皿のようにして何往復させても
彼女の名前が、『空森雛』の三文字が――そこにはなかった。
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