第64話『頑張り屋さんとの勉強会(前編)』
テスト直前の日曜日、雛との勉強会はお昼過ぎから優人の部屋で行われていた。
開始からすでに小一時間、お互い昼食は済ませてきた上での勉強会ではあるが、食後特有の眠気が襲ってくる気配はなく、優人としては一人でやるよりも俄然集中できるというものだった。
それは紛れもなく、今も優人のすぐ近くでシャーペンを走らせる雛のおかげに他ならないだろう。
勉強会と言っても、学年が違う以上はお互い特に教え合うことはない。厳密には優人が雛に教えることはできるだろうけど、学年首席にも輝いたことのある彼女の教師役なんて、優人では分不相応だ。
だから特に会話を交わすこともなく、それぞれ黙々と自分の勉強に取り組むだけ。
だが、それがむしろ良い。一人だと気が抜けてだらけてしまいそうな瞬間でも、同じ空間で頑張ってる雛がいるとそれだけで身も心も引き締まる。
本日の雛は休日故の眼鏡姿でなおさら優等生感が強く、アンダーリムのフレーム越しに見える金糸雀色の瞳は隙のない真剣さで英語の問題集に注がれていた。
時折思案げに眉を寄せ、唇に人差し指を添える姿がまた一段と絵になっており、そんな彼女の集中を乱さないようにと思えば、自然と優人も自分自身の勉強にのめり込む形になる。
テスト直前にこれほど有意義な時間を過ごせるなんて、一緒に勉強することを申し出てくれた雛には感謝の念しか湧かない。
――とはいえ、さすがに長時間根を詰めてばかりというのもよろしくない。
進み具合が一段落したところで優人はシャーペンを置き、天井を仰ぐように後ろ手を突いた。
手応えの混じる充実した疲労感を感じつつ雛の様子を窺えば、彼女は未だ手元に視線を落としたまま、ページを捲って次の問題に取り組むつもりのようだ。
本当に、真面目で、頑張り屋だ。
そんな雛に自分でも気付かない内にそっと笑みを浮かべた優人は、極力静かにその場を立って、冷蔵庫へと向かった。
「少し休憩したらどうだ?」
そんな言葉を前置いて、優人は雛の邪魔にならなそうな位置に微かな湯気の立つマグカップを置いた。
手を止めてぱちりと瞬き、それから顔を上げた雛は少し疲れを滲ませたように眉を下げる。
「そうですね。私の分まで、ありがとうございます」
「気にすんな。むしろ自分の分だけ用意する方が薄情だろ」
一人だと身が入りそうにない優人に付き合ってくれる、ほんのお礼代わりだ。
定位置に座り直して自分の分のマグカップを傾けると、用意したホットミルクの穏やかな甘さが口の中に広がる。雛もまた優人の後を追うようにマグカップに口を付ければ、その口元は淡い笑みで緩み、かと思えば何やら神妙な様子でマグカップの中を見つめ始めた。
「うーん……どうして優人さんが作ったホットミルクはこうも美味しいんでしょうか」
「気に入ってくれるのは嬉しいけど、ぶっちゃけ材料を混ぜて温めただけだぞ。レシピなら教えたろ?」
「そうなんですよねえ……。私も自分で何度か作ったんですけど、何か物足りない気がするんです」
ふむう、と小首を傾げる雛。
一番最初は去年、雛がこのアパートに初めてやって来た日に振る舞ったホットミルクは、彼女にとっていたくお気に入りの品らしい。ある日レシピを聞かれたのでメッセージアプリで送ったのだが、あれから何度か試したようだ。
雛のことだから、材料の配分や手順は忠実に守っていると思うのだが……優人と何が違うのだろうか。
思わず雛と一緒に考え込む形になるのだけど、答えは出そうにない。
すると。
――くぅううう……。
どこからともなく聞こえたのは、可愛らしいお腹の音。
果たしてこの流れは何度目か、自分たちの間ではもはやお決まりになっているのか。
そう思えてしまうぐらいに経験しているというのに、優人は喉の奥からこみ上げる笑い声が抑えられないし、雛は顔を真っ赤に染めてお腹を両手で隠している。
いつまで経っても新鮮なその反応は、眺めていてとても微笑ましい。
「もう少しすればおやつの時間帯だもんな」
「何で優人さんといるといつもこう……」
「俺のせいみたいに言うな」
ぷるぷると肩を震わせる雛に苦笑混じりで言葉を返した。途端にこちらを涙目で睨む二つの瞳をさらりと受け流し、優人はまた立ち上がって台所に向かう。
何となく雛をびっくりさせたい気持ちがあって、布巾を被せて見えないように隠していたもの。予定よりは少しタイミングが早い気もするが、あんな風にねだられては仕方ない。
「ほら、良かったらこれでも食べろ」
「……パウンドケーキ、ですか?」
「正解。午前中に作っといたんだよ」
「それはあれですか、食いしん坊な私のことを見越してということですか」
「違えよ普通に勉強のお供としてだよ」
勉強で疲れた脳細胞には甘い物が一番。ということであらかじめ用意しただけの話なのだが、タイミングがタイミングなだけに少し雛の恨みを買ってしまったらしい。
まあ、涙目+真っ赤な頬でいくら凄まれたところで、むしろ余計に可愛らしさが高まるだけなのだが。
片手で摘みやすいよう、すでに切り分けてあるパウンドケーキ。器に並べられ、断面からほんのりとバターの匂いが香るそれらを前にした雛は、結局膨れた頬から空気を抜いて手を伸ばす。
ぱく、もぐもぐ――ふにゃり。
パウンドケーキの味に浸るように目を閉じる、そんな雛の柔らかい笑顔を眺めながら、優人も勉強の合間の糖分補給に勤しむのだった。
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