第58話『二月と言えば』

 雛のお世話を始めとする療養の甲斐もあり、マラソン大会の日から約一週間後、めでたく利き手の指の固定が外れることになった。未だ小指にテーピングは施されているし、重いものを持つことなどはまだ厳禁という制約はあるものの、普段の生活を送るだけなら何ら支障はない。


 短いようで長く感じた期間も、最初の方こそ色々とトラブルはあったが平穏無事に過ごすことができた。その立役者である雛には感謝の念が尽きないというものだ。


「先輩、今日はなんか機嫌がいいっすね?」

「ようやく自由に利き手が使えるからな」


 その日の放課後の料理同好会、小唄からの指摘に優人は軽快なフライパン捌きで応えた。

 熱したフライパンの上をクリーム色の生地が舞い、ふわりと甘い匂いが一帯に漂う。


 雛のおかげで緩和されていたとはいえ、自分でも気付かない内にストレスは抱えていたのだろう。趣味のお菓子作りを問題なく行える今、優人はこれまでの鬱憤を晴らすかのようにフライパンを振るった。


 とはいえ、治ったばかりの身であることには変わりない。これで調子に乗ってまた痛めたら雛や病院の先生方に申し訳ないどころではないので、作っているのはシンプルなホットケーキだ。


「ところで、お前は何も作らないのか?」


 一枚目を焼き上げて一息ついたところで、さっきから椅子に座って何かの雑誌を眺めているだけの小唄に顔を向ける。過ごし方に関してとやかく言うつもりは微塵もないのだが、わざわざ部活に顔を出した割には不可思議な行動だ。


 小唄は紙パックジュースの中身をストローで吸い上げながら、家庭科室の扉を横目で窺う。


「人待ちなんすよね。たぶんもうちょいで来ると思うんすけど」


 そんな小唄の発言を裏付けるように、家庭科室の扉がコンコンと控えめなノックで叩かれる。小唄が「どうぞー」と明るい声で入室を促すと、開かれた扉から顔を覗かせたのはまさかの雛だった。


「ひ――空森」


 ここ数日で思いの外馴染んだ名前呼びをしそうになった瞬間、この場に小唄がいることを思い出して瀬戸際で踏み止まる。

 幸い気付かれることはなかったらしい。小唄は椅子から勢いよく立ち上がると、少しぎこちない足取りで室内に入った雛を笑顔で出迎えた。


「すいません、お待たせしまって……」

「んーんー全然。そんじゃ始めよっか!」

「何かやるのか?」


 口振りから察するに小唄の待ち人とやら雛で間違いないだろう。だが何のために、そしてわざわざ家庭科室を待ち合わせ場所にした理由が分からない。

 優人が疑問符を浮かべると、さっそくと言わんばかりに調理器具の準備を始めていた小唄が優人の方を向いた。その顔はニヤケ面だ。


「ヘイ先輩、二月と言えば?」

「学年末テスト」

「そういう小ボケはいらねーんすよ」


 後輩に鼻で笑われた。


「……バレンタインか?」

「イエス!」


 優人とてそこまで灰色な学園生活を送っているつもりはない。

 思い付く行事名をため息混じりに口にすれば、小唄がパチンと指を鳴らした。


「というわけで今日は空森ちゃんと一緒に、バレンタインに向けての試作品を作るんすよ」

「なるほどな」


 暦はすでに二月に入っていた。バレンタイン当日までの日数を考えると少し気が早いとも思うが、まあ早い分には不都合もないだろう。

 納得して優人が二枚目のホットケーキの調理に入ると、家庭科室の隅に自分の荷物をまとめた雛が近付いてきた。


「ごめんなさい優人さん、急に押し掛ける形になってしまって」

「いいよ別に。元々スペースは有り余ってるんだから、好きに使ってくれ」


 準備中の小唄には聞こえないようにぽそりと、小声で話しかけてきた雛は申し訳なさそうに頭を下げたので、優人は笑って雛の参入を許す。


 無論、部活中においては家庭科室は料理同好会の預かりとなっている。そういった意味では、調理器具を乱雑に扱われたり室内を汚されると先生方から大目玉を食らいかねないのだが、こと雛に関してはそういった心配も不要だろう。


 というか、いつの間にかそんな約束を交わすぐらいに小唄との仲が進展していることにちょっと驚きだ。


「手作りする予定なんだな。小唄から誘われたのか?」

「ま、まあ、そんな感じでしょうか。高校生になって最初のバレンタインですし、せっかくならどうかということで」

「へえ。雛が作ったチョコなら美味そうだな」

「……だといいんですけどね。生憎と私、お菓子作りは経験がないんです」

「そうなのか?」


 台所に立つ様になった雛の後ろ姿は、今となっては目に浮かぶぐらいに覚えている。優人の中では手慣れた印象しかないだけに意外な情報だ。


「そうなんですよ。その点、鹿島さんは経験があるらしいので力をお借りしようかなと」

「……なるほど」


 ――言ってくれたら、俺が教えたのに。


 そんな風に一瞬でも考えてしまった自分が、妙に気恥ずかしく思えた。

 一般的にバレンタインは女子が主導となるイベントだ。そこに男である優人が入り込むと色々やりにくいだろうから、女子同士で準備を行うのは当然のこと。


 なのに、雛から頼りにされた小唄に、少なからずとはいえ嫉妬めいた感情を抱いてしまうなんて。


(何を考えてるんだか)


 馬鹿らしい考えだと割り切り、ホットケーキの生地にふつふつと沸き始めた気泡に意識を集中させる。


 そういえば、雛は誰にチョコを渡すつもりなのだろう。

 同姓間で配るいわゆる友チョコは間違いなさそうだとして、男子にも義理で渡すぐらいはするのだろうか。


 ――雛から貰えたりしないかな、なんて期待するのは、さすがに烏滸がましいだろうか。

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