第56話『人目を避けてこっそりと』

 土曜日のマラソン大会から休日である日曜日を挟み、そして迎えた月曜日の登校日。

 現在は三限目である日本史の授業が行われており、担当教師が説明を交えながら板書をし、生徒らは黒板に書かれた文字をノートに書き写していく。

 微妙に船を漕ぎかけている者もいるが全体的に真面目な授業風景の中、窓際後ろ寄りの席に座る優人はしかめっ面でノートに目を落としていた。


(……汚い)


 絶賛利き手を故障中の優人にとって、ノートを取る作業はかなりの難航を極めていた。

 元から達筆というわけでもないのだが、使える指だけで書き写した文字や絵はかなりぐにゃぐにゃしている。書いた当の本人だからまだ解読可能だが見栄えは悪く、試しに反対の手で書いてみてもあまり代わり映えはしない。

 だましだましもさすがに限界で、特に板書量と漢字が共に多い日本史ではお手上げだ。

 結局授業時間の約三分の一を過ぎた辺りで優人の心は折れ、シャーペンを机の上に放り出した。


(やっぱり頼るか)


 実は朝のホームルーム直前、優人の状態を見かねた一騎からノートのコピーは提案されていた。試しもせずに甘えるのもどうかと思ったので「もしもの時は」と返答しておいたが、あっけなくそのもしもの時が到来だ。

 持つべき者は気の利く友人、ここは素直に頼りにさせてもらおう。


 ちなみに一騎の隣にいたエリスが「良かったら私のでも」と言ってくれたので、コピーさせてもらうのは彼女のノートにするつもりである。

 先に申し出た一騎からはぶーぶー不平不満をもらうかもしれないが、どうせなら成績が良い方に決まっている。差は歴然、許せ。


 しかし、ノートを取る必要がなくなると割と暇だ。

 手を動かさない分、耳はなるべく教師の言葉に傾けているものの、ふとした瞬間に気が抜けてしまう。


 今日は朝から気候も穏やかで、教室の窓から覗く空は晴れやかな青。時期的にまだ空気は冷たいものの、登校中は降り注ぐ陽光のおかげでそこまでの肌寒さは感じなかった。

 小さな欠伸をこぼし、優人は目尻に浮かんだ涙を指で拭う。


(……今日の昼飯、どうするかな)


 という思考になってしまうのも、小腹が空く時間帯になってきたというのに食べたいものがさっぱり思い浮かばないからだ。

 今の優人が楽に食べられる学食のメニューといえば、カレーや丼物、パスタなどその辺り。

 でもカレーは一昨日の夜と昨日の昼に、パスタは昨日の夜に、丼物は雛から何か食べたいものがあるかを聞かれて親子丼と答えたので今夜に。ここ二日で見事に選択肢を網羅してしまった。

 購買で総菜パンを買う手もあるが、優人は毎朝がパンな上に今日は単純に気分じゃない。


 ……まあ、残すところあと数日の辛抱なのだから、多少似たようなものが連続しても仕方ないだろう。作ってくれる雛に文句なんてそれこそ恩知らずだ。


 そう割り切って外に向けていた視線を黒板に戻すと、スラックスのポケットに入ったスマホが震えた。教師の目を盗んで画面を確認すれば、表示されているのはメッセージアプリの新着通知。


『昼休みの最初の方、ちょっとだけ会えませんか?』


 それは、雛からのメッセージだった。








 雛との集合場所に選んだのは特別教室が集中している第二校舎の、万全を期してその屋上付近の階段だ。

 第二校舎自体は授業でもなければ人気ひとけが少ない上に、この時間帯だと学食や購買の方に人が集中しているから尚更しんと静まりかえっている。


 屋上の扉こそしっかり施錠されて立ち入れないが、人目を避けて落ち合うには最適の場所と言えるだろう。


「雛」


 昼休みが始まってすぐに教室を出た優人だが、辿り着くのは相手の方が早かった。

 優人が踊り場から見上げた先、屋上の扉に背中を預けるように佇んでいた雛はこちらからの呼びかけに顔を上げると、軽く反動をつけて体勢を直す。


 位置関係の都合もあるが、動いた拍子に揺れたスカートの裾に少しだけ目を奪われたのは内緒だ。

 視線を足下に固定しながら、雛の待つ場所まで上がっていく。


「悪い、待たせたな」

「いえ、私も今来たばかりですから。優人さんの方こそ急にお呼び立てしてすいません」

「いいよ別に。それでどうした?」


 学校での初めての名前呼びに胸をくすぐられつつ、雛に用件を尋ねる。

 人気のない場所で女子と二人きり――まるでこれから告白されるかのようなシチュエーションだが、さすがにそういうわけでもないだろう。

 雛は「実は」と一言挟むと、持っていた手提げの袋から何かを取り出す素振りを見せた。


「本当なら朝の内とか早い時間帯に渡せれば良かったんですけど、美化委員の当番とかでちょっとバタバタしちゃって……これ、お弁当作ってきたので良かったらどうぞ」


 雛が差し出したのは、こんもりと長方形に膨れた水色の巾着袋。

 どうぞと言われるがままに優人が受け取ると、ボリューム感の溢れる重さが伝わってきた。


「弁当って……わざわざ用意してくれたのか?」

「ええ。と言っても、自分の分のついでですけどね。一つ作るも二つ作るもあまり変わりませんから」


 そう言った雛は、言葉の割にはやや重い息を吐いて肩を落とした。


「作ってくれたのは嬉しいけど……無理してないか? 何か疲れてるように見えるぞ」

「あー……これはまた別のお話でして……」

「何かあったのか?」

「マラソン大会のことで朝から色々と質問攻めにあったんですよ。どうやら先輩の付き添いで先生の車に乗ったところを見てた人がいたらしくて」

「なるほどな」


 どうやら雛の周囲には野次馬根性を働かせる者が多かったらしい。

 現場にいたとはいえ、傍から見れば優人とほぼ無関係の雛がわざわざ付き添ったともなれば、多かれ少なかれ邪推されるのは容易に想像できる。

 優人の方では特に音沙汰がなかったのは、雛に比べて顔を知られていないからだろう。


「実は私も少し足を捻って……と適当にはぐらかしておきましたけど、中々大変でした」

「お疲れさん。さすがにもう落ち着いたのか?」

「何とかですかね。とりあえず今日のお昼はゆっくりしたいので、どこか人目のない落ち着いたところでも見繕おうかと思います」


 さすがにここだとちょっと寒いですけどね、と付け足した雛がふるりと肩を震わせた。

 人目を避けるという意味ではうってつけの場所だが、暖房が効いてない上に扉一枚を挟んだ屋上なので、確かにここに長居しては身体も冷えるだろう。


 ――だったら。


「落ち着ける場所を探してるんなら、良いところがあるぞ」

「え?」 


 こちらを見上げてきょとんと首を傾げる雛に、優人はニヤリとした笑みを見せつけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る