第55話『雨降って地固まる』

 利き手が自由に使えない状態でどうにか身体を洗い、湯船に身を沈めることしばらく。

 ゆっくり浸かって疲れを癒すという気分にもなれなかったので、最低限頭を冷やして風呂から上がり、寝間着に着替えた優人は洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。

 顔の赤みこそ湯上がり特有のもの程度に落ち着いたとはいえ、表情自体はまだ強ばって見える。それもこれも、先ほど雛にしでかしたばかりの行為を悔いているからに他ならない。


 ため息一つを重くこぼし、雛から教えてもらったやり方で髪を乾かす。レクチャーを受ける前よりは良く、けれど雛にやってもらった時よりは微妙に思える仕上がりで手入れを終え、リビングへと足を運んだ。


 そしてリビングへの扉を開けた瞬間、優人の足は固まる。

 雛が、そこにいたからだ。


(まだいてくれたのか……)


 とっくに帰ってしまったかと思ってたのに。それとも、あれだけのことでも雛の優人に対する危機意識が改まることはなかったのか。

 そんなことを一瞬考えたが、雛の様子を見ればそうでないのは明白だった。


 ソファーの端に座る雛は両手を太股の間に挟んで背中を丸めた体勢であり、優人がリビングに入った瞬間にはびくりと肩を震わせた。ちらちらと視線を送ってきてはいるのだが、何か言ってくるでもなく口は閉ざしたきり。

 服装はすでに元の部屋着に戻っているものの、上に羽織ったパーカーのファスナーは限界まで上げられていた。


 全く効果がなかったわけではなくて少し安心だが、それならそれで気まずい雰囲気を意識することになり、どう対応すればいいかが分からないというのが正直な感想だ。

 とにかくこのまま突っ立ているわけにもいかないので、優人は雛がいるソファーには座らず、無造作に置かれたクッションの上で胡座をかく。


「……あの」


 たっぷり一分ほど時間を置いてから、雛の小さな声が届いた。


「……お風呂、大丈夫でしたか?」

「ああ。身体は何とか洗えたし、しっかり温まってきたよ。髪も、空森が教えてくれたやり方で乾かした」

「……覚えててくれたんですね」

「そりゃそうだろ。せっかく教えてくれたんだから……」

「そう言って頂けると、教えた甲斐がありました」


 そこで会話は止まった。

 言葉を交わせば多少なりともマシな雰囲気になるかもと思ったのが、肝心のそれが続いてくれない。


 ――いや、そんななし崩しで片付けようとすること自体が、そもそもの間違いなのだろう。


 優人はクッションから腰を上げると、雛の姿を身体の正面に捉えて両膝をつく。

 姿勢を正す優人を見て雛がわずかに首を傾げる中、優人はその体勢のまま身体の前に頭と両手をついた。要は土下座だ。


「せ、先輩……?」

「悪かった」


 誠心誠意、とは謝罪する側が口にしていい言葉ではないと思うが、できるだけそういった気持ちを込めて頭を下げる。


「急にあんな風に迫られて……怖かったよな」

「そんな、頭を上げてください……! 先輩の言う通り、私が色々と無防備だったのは本当のことだと思いますし……」

「それでもだ。空森がせっかく善意で手伝ってくれたのに、俺はそれに対して不誠実な真似をした。だから、悪かった」


 額をカーペットに擦り付けたまま謝罪を重ねる。この行動だって突き詰めればただの自己満足かもしれないが、優人なりにけじめはつけたいと思った。


「本当に、ごめん。俺……最低だよな」

「――そんなことありません」


 思い返せば思い返すほど自制できなかった自分が情けなくて、つい卑下する言葉が漏れ出てしまう。けれどそれをすかさず否定したのは、他でもない雛の、うってかわって芯の通った声だった。


「先輩、頭を上げてください」


 穏やかな音色に誘われるように視線を上へとやる。

 ソファーから立ち上がった雛はゆっくりと優人の前に膝をつき、幼い子供を慰めるような優しい目を向けた。


「先輩は、絶対に最低な人なんかじゃありませんよ? いつも私を気遣って、尊重してくれてるじゃないですか。さっきのことだって、その……私のことを考えてくれたから、あんな風にダメなことはダメだと教えてくれたわけで……。とにかくそういうの、本当に優しい人じゃないとできないことだと思います」

「空森……」

「だから、そんなに自分を悪く言わないでください」


 ね? と優しく言い聞かせるかのように。

 その言葉と声音にはじんわりと包み込んでくれるような温かさがあり、優人が抱えていた罪悪感を和らげてくれる。


「私こそごめんなさい。……その、引っ越してからこっち、先輩とは一緒にいることが多かったじゃないですか。だから慣れたというか、むしろそっちの方が落ち着くような気がして……それでつい、気が緩んじゃったんだと思います」


 伸びた横髪を指先でいじりながら、頬を桜色に色付かせて雛は言う。


「私の方でも色々と気を付けようとは思うので、よければこれからも先輩後輩として、隣人としてお付き合い頂けると幸いです。やっぱり先輩の怪我は心配ですから」

「あ、ああ、むしろ俺の方から頼みたいぐらいだ。さっきも言ったけど、飯とか作ってくれるのは本当に助かるから、怪我が治るまでの間は続けてもらえるなら嬉しい」


 むしろ非難されて、下手したら愛想を尽かされるかもと身構えていたぐらいだ。それが今後も現状維持できるというのなら、諸手を上げて喜びたい。


「はい。ではそういうことで、よろしくお願いします」


 淡いはにかみを浮かべて雛が話を締め括った。

 終わってみれば結果オーライではあるが、何だかどっと疲れた。緊張したり、昂ったり、罪悪感に駆られたりと、感情のジェットコースターにでも乗った気分だ。


 土下座を解いた優人がほっと胸を撫で下ろしていると、雛は何を思ったのか優人をじっと見つめる。


「――優人さん」

「え? な、何だよ急に」


 何の脈絡もない、いきなりの名前呼び。

 落ち着いた途端に面を喰らった優人が理由を尋ねる一方、何やら思案顔の雛は腕を組み始めた。


「いえ、本当にぴったりな名前ですよねって思って」

「んだそれ。……不意打ちはやめろ」

「……ひょっとして照れました?」

「うるさい。いつも通り『先輩』でいいだろ」


 図星を指され、鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 バレバレな誤魔化しにくすりと雛は笑うと、からかうように口元の弧を深くした。


「そう拒否されてしまうと、逆に呼びたくなりますね」

「……せめて他に人がいない時だけにしてくれ。あと、だったら俺も空森のこと雛って呼ぶぞ?」

「え、ま、まあ、いいですけど……」

「じゃあ――」


 そっぽを向いていた視線を戻し、金糸雀色の瞳を真っ直ぐに見やる。それから少し短い深呼吸を挟んで、彼女の名前を自分の声に乗せた。


「雛」

「……優人さん」

「雛」

「優人さん」

「雛」

「優人さん」

「雛」

「優――ってこれいつまで続けるんですかっ。何だか恥ずかしくなってきますよ」


 頬の赤みを濃くした雛がぱたぱたと手で顔を仰ぐ。

 そんな可愛らしい仕草を微笑ましく思うが、きっと優人も似たような状態だろう。

 こほん、と雛が咳払いを一つ。


「それでは、そろそろお暇します」

「ああ、遅くまで悪かったな」

「いえ、お気になさらず」


 手早く自分の荷物をまとめて玄関へ向かう雛。

 見送るためにその背中を追いかけると、玄関から外へ出た雛はそこで不意に立ち止まり、優人の方へと振り返った。

 群青色の髪がさらりと舞い、冷たい外気と共に甘い匂いが優人の鼻を掠める。


「お大事に。それとおやすみなさい、優人さん」

「おやすみ、雛」


 今夜の別れを飾るのは、お互いの名前だった。

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