第54話『我慢にだって限界がある』

「軽くお湯をかけますね?」


 背後からの問いかけに頷くと、優人の頭上から適度な勢いで温かいお湯が降り注いだ。

 頭全体を撫で回すにゆっくりと、雛の細い指が髪の隙間に入り込み、絡まりを解しながら濡らしていく。

 その手付きは、大晦日に髪を乾かしてもらったことが思い出される優しいものだった。


(やっぱこれ気持ちいいな……)


 誰かにやってもらうのがいいのか、それとも雛の手だからそう感じてしまうのか。

 自分の中でもいまいちはっきりしない、どっちつかずの心地良さを覚えながら、雛にされるがままに身を任せる。


 しばらくするとお湯は止まり、傍らにシャワーノズルを置いた雛は次の作業へ移っていく。


「シャンプーは……先輩、ちょっと失礼します」


 鏡のすぐ下、壁に貼り付くタイプのラックに置かれたシャンプーのボトルに雛が手を伸ばす。

 位置関係的に優人の後ろから手を伸ばす形になり、一言断りを入れた雛は優人の肩に手を添えて身を乗り出した。


「――っ」


 ふにゅり、と自分の肩甲骨付近に押し当てられる柔らかな感触は一体何なのか。

 体勢からして正体なんて一つしか思い当たらないそれから意識を遠ざけ、優人はひたすらに無心を貫く。

 とはいえ、ボトル一本を掴み取るのにさして時間がかかるわけもなく、すぐに雛が体勢を戻すと共にその感触は背中から離れてしまった。


 もう少しぐらい……とか思ってはいけない。


「シャンプー入ります」


 再度の断りに首肯を返せば、雛の両手の平が優人の髪にシャンプーを塗り付けた。

 あらかじめある程度泡立っていたシャンプーはふわふわの塊となって頭頂部に降り立ち、大きく円を描くような手付きで髪に馴染んでいく。


 次第に泡立ちが大きくなると、後ろ髪、襟足、両サイドと順番にシャンプーが面積を広げ、時折バスルームの暖かな空気を含ませながら雛の十指は頭皮を揉み込んでいく。

 洗髪ついでにマッサージも行われているようで、徐々に落ち着きを取り戻した優人はゆっくりと肩の力を抜いた。


「かゆいところはないですか?」

「大丈夫だ。むしろいい感じに気持ちいい」

「それなら良かったです。人の髪を洗うのなんて初めてなので、実はちょっと不安でした」

「そんなに気負わなくていいぞ? もっと荒っぽくてもいいぐらいだ」

「男の人って感じですねえ。でも先輩に手荒な真似はできませんから、私はこのままゆっくりやらせてもらいますよ?」

「へいへい、お任せしますよ」


 むしろこちらからお願いしたいぐらいだ。

 髪を洗ってもらうなんて小さい頃に親にやってもらって以来で、もう長いこと経験がない。特に恋しく思ったことなんてないけれど、久しぶりの感覚はどこか懐かしさを覚えさせ、優人の心の中にするりと入り込んだ。


 雛の方も最初にあった緊張が和らいだらしく、気付けば小さく鼻歌を口ずさみながら両手を滑らせている。

 その音色がまだ耳に心地よく、ヒーリング音声でも聞いてるかのように優人の意識を溶かしてくれた。


 いつの間にか、ぼーっと目を閉じて感触に浸っている自分がいる。


「先輩、流―――から――んと目――――くだ――ね?」


 雛が何か言っているのも所々が頭を通り過ぎてしまい、けど雛に任せれば大丈夫だろうと判断して無意識に頷く。

 ともすれば、気を抜くとそのまま夢の世界に落ちていけそうな安心感があり、さすがにそれでは雛もやりにくいだろうと目を開けた――その瞬間だった。


「……っあ゛!?」

「先輩っ!?」


 薄く瞼を開けた途端、上の方からシャンプーの泡の混じったお湯が流れてくる。

 雛がシャンプーを流し始めたのだと気付いてももう遅く、目の中に発生した刺激に優人は顔をしかめた。


「ちょ、流すから目を閉じてって言ったじゃないですか!?」

「悪い、油断してた……っ」

「もう……! ほら、すぐ流しますから顔を上げてじっとしてください」

「ああ、頼む……――っ!?」


 幸い反射的に急いで目を閉じたおかげで、上げてしまった声の割に痛みはそこまでではない。だからここは雛に任せようと言われた通りに顔を上に向けたのだが、その結果、優人の後頭部に今一度あのふにゅりとした感触が与えられた。


 シャンプーを洗い流そうと雛が身を寄せたことも原因だろう。

 優人の頭は二つの山の間に迎え入れられる形になり、それがまた良い具合に収まってくれる。

 何より雛自身はその状態を気にもせず、ただ心配そうに優人を労ることを優先しているのだからたちが悪かった。


「空森、いい、もう大丈夫だから……っ」

「何言ってるんですか。しっかり流さないと腫れちゃいますよ」

「いやだから、あとは自分でやるからシャワー貸してくれって!」

「あ、ちょっと、先輩待っ――ひゃっ!?」

「空森っ!?」


 未だ視界の回復していない状況で、強引に奪おうとしたのが失敗だった。

 小競り合いの結果、雛の身体が優人から離れてくれたのは良かったものの、直後に大きなものを落としたような音が背後で上がる。

 慌てて自由な左手で目の回りを拭い、目が開けられるようになった優人が振り返る。


 ――そして、眼下に広がる光景に息を呑んだ。


「いたた……」


 どうやら尻餅をついてしまったらしい。

 大きく足を開いた雛はバスルームの床に座り込み、腰からその少し下を手の平でさする。

 尻餅の拍子にシャワーノズルを取り落としてしまったのか、ブレた矛先は雛の方へと向き、その華奢な肢体を吹き出るお湯で濡らしていた。


 ごくりと、優人の喉がすごい音を鳴らす。

 目の前の雛から目を逸らすことができなかった。


 お湯を浴び、しっとりと濡れた白磁のような素肌。湿った髪が張り付く頬は淡い紅色に色付き、そのカーブを伝ったしずくは顎から落ちて雛の胸元へと落ちる。

 最もシャワーの被害を浴びたTシャツはぐっしょりと濡れて下に着たスクール水着の紺色を透けて見せる上、張り付いた布地は起伏に富んだ雛のボディラインを余すことなく伝えてきた。


 最も勾配のきつい双丘もさることながら、きゅっと引き締まった腰から伸びる両足の太股も男を悩ませる肉付きだ。

 制服、私服問わず日頃から黒タイツを着用することの多い雛だが、当然今は身に着けていない。初めてまじまじと見た素足は健康的な白さが眩しく、一見すると細いくせにどこかむっちりとした印象も抱かせる。


 まずは手荒な真似をしたことを謝ろう。そんなことを考えていたはずなのに、言葉が一向に出てこない。

 回復した視覚からなだれ込んでくる情報量が優人の口を塞いでいた。


「先輩?」


 自身に注がれる視線に気付き、雛が無垢な瞳で優人を見上げる。

 下に水着を着ているから、濡れても大丈夫。

 そんな考えだから無防備ともいえる表情を浮かべているのだろうけれど、雛は優人の――男子高校生の情欲を甘く見積もり過ぎだ。


 透けている。それだけで、十分にクる。


「……悪かった。さっきも言ったけど、後は自分でやるから、空森はもう上がってくれ」


 断腸の思いで顔を伏せ、苦心して絞り出した声で雛に退出を促す。


「え……でも、まだちゃんと流し切れてませんし、背中だって……」

「だから自分でやるって言ってるだろ。もう、いいから、早く」

「何でさっきからそう遠慮するんですかっ。ほら、続きをやりますから――」

「あのさあ」


 いい加減にしろ、こっちの気も知らないで。


 優人の頭の中で、何かが切れた気がした。

 そこからの動き出しは早い。性懲りもなくシャワーを手に取ろうとした雛の手首を掴むと、そのまま持ち上げて雛の頭上の壁に押し付ける。

 片腕を動かせないように固定した後、腰を上げた優人はおもむろに雛との距離を詰めにかかった。

 狭いバスルーム内だから元々近かったとはいえ、今や二人の距離は、あと少しで鼻先が触れ合いそうなほどに近い。


「……え?」


 綺麗な金糸雀色の瞳が大きく見開かれる。その奥に宿った驚きの感情は、距離が近いだけによく見て取れた。


「俺がこういう風に迫ってきたらとか……少しは考えないのか?」


 自分でも驚くほど低い声。

 その声音に雛がぞくりと震えた吐息をこぼす中、優人は構わず言葉を続ける。


「この際はっきり言わせてもらうんだけどさ、お前、ちょっと無防備過ぎるんだよ」

「せん……ぱい……あ、の」


 今日だけじゃない。大晦日の時だってそう。


「お前が俺を信用してくれるのは嬉しいし、こうして色々と世話を焼いてくれるのだって、本当にありがたいと思ってるよ。けどな……俺だって男なんだよ」


 雛の視線が一瞬に向いた気がした。

 その先にあるものが証明する通り、今雛の目の前にいるのは一人の男だ。


 特別身体を鍛えているわけでもない優人ですら、ちょっとその気になればこうして雛の動きを封じ込めてしまえる。

 利き手が完全に自由ならもっと楽に。ここから先の、男の欲に身を任せた行為だって好き放題にできる。

 もちろん恋仲でもない相手に不埒な行いをするつもりはないし、雛のように善意で手を差し伸べてくれる相手ならなおさらそうだ。


 けれど、そんな理性の鎖を引きちぎってしまう恐れがないなんて言い切れない。

 この状況には、雛には、それだけの魔力がある。


 薔薇色に染まる頬、潤いに溢れた唇、豊かな胸の膨らみ、抱き締めやすそうな腰回り、肉付きのいい太股、その根本にある三角地帯。挙げ出したらキリがない。


「頼むから……もうちょっと危機感持ってくれ」


 最後の囁きはもはや懇願に近かった。

 そしてその意志はさすがに雛に届いたらしく、優人に掴まれた方とは逆の腕で自分の身体を守るように抱くと、雛はぎゅっと唇を引き結んで、開く。


「ごめん、なさい」

「……分かったら、出てってくれるか?」

「……はい」


 少しでも優しい声音で促したつもりが、果たして意味はあったのか。

 優人が手を離すと雛はぎくしゃくとした動きで立ち上がり、バスルームから姿を消した。

 今までずっと出しっぱなしだったシャワーの音が嫌に室内に響き、優人は蛇口の栓を締めて椅子に重い腰を乗せる。


(やっちまった)


 嘆いたって後の祭りだと分かっていても、肩を落とさずにはいられない。

 理由がどうであれ、優人がしでかしたことは雛を怯えさせ、彼女からの信頼に背く行為だ。

 そして、一番情けなく思うのは、


「くそっ……」


 雛の柔らかな感触や甘い匂いを何度も繰り返し思い返してしまう、自らの浅ましい胸の内だった。

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