第51話『譲れない頑張り屋さん』
「その分だと指の固定が外れるまで……まあ、多めに見て二週間ってところかなあ」
時間は流れ、お昼時の保健室。
丸椅子に座った優人にその診断結果を告げたのは、この学校の保険の先生だ。先生方の中では比較的若く、またおっとりとした雰囲気が男子の間で密かな人気となっている女性である。
「マラソン中にファールボールが直撃だなんて、君も運が無かったねえ」
「ホームランボールならまだ喜べたんですけどね」
あまり保健室の世話になる機会もなかった優人だが、こうして面と向かって話してみると、なるほど確かにこの先生の人気の理由が分かる。
表情や所作には大人の女性といった余裕のある柔らかさがあり、ため息混じりの優人の軽口にも「あはは、それは言えてる」と明るい笑顔でノってくれる。
こうして言葉を交わしているとほっと落ち着けてしまうのが、この先生が誇る一番の魅力なのだろう。
……まあ、いくら気持ちが安らいだところで、怪我の痛みは引いてくれないのだが。
試しに軽く力を入れると、じくりとした鈍痛を訴えてくる優人の利き手である右の小指。これ以上の症状の悪化を防ぐため、今は隣の薬指とまとめて包帯で巻かれて動かないように固定されている。
こんな怪我を
河川敷の野球場で行われていた試合において、打者の打ち上げた特大ファールボールが立ち止まっていた優人たちの方へと襲来。反応が遅れて避け損なった優人が咄嗟に手で自身を守ろうとした結果、こうして小指が犠牲になったというわけである。
実際は直撃でなく、ある程度受け流す形になったので大騒ぎするほどでもないのだが、もしかしたら骨にヒビぐらいなら入ってるかもしれないというのが先生の診断だ。
「それはあくまで応急処置だから、今からちゃんと病院に行かなきゃだね。私が車出してあげるつもりだけど、この後の予定とかは大丈夫?」
「はい、マラソン終わったらさっさと帰るつもりでしたし」
「なら大丈夫だね。担任の先生に報告してくるから、ちょっと待っててね」
そう言い残し、先生は保健室から出ていく。そのタイミングで、付き添いとして優人と共に保健室を訪れていた一騎が話しかけてくる。
「多めに見て二週間か。思ったよりは平気そうで一安心だな」
張り詰めていた雰囲気を解くように息を吐く一騎。わざわざここまで付き添ってくれた友人に対し、優人は何てことはないといった風に薄く笑ってみせた。
「悪かったな、どんくさくて避け切れなかった俺に付き合わせて」
「どんくさくてって、お前なあ……」
楽観的とも言える笑みを浮かべる優人とは対照的に、一騎は腰に両手を当てるとがっくりとした様子で
「分かった分かった。お前の中でそういうことになってんなら、そういうことにしといてやるよ。……ただし、今度昼飯の一つでも奢らせろ」
それで言いたいことは言い終えたのか、ひらりと手を振った一騎は優人に背中を向け、保健室のドアから廊下へと出ていく。
どうやら高一の頃からの付き合いである一騎には見抜かれているらしい。それでも優人の意志を汲んであえてそこには追求せず、代わりに奢りの約束を取り付けた友人の背中に、優人は「了解」と短く返答した。
そう時間も経たない内に車の用意を終えた先生が戻ってくるだろう。それに合わせてすぐ出発できるよう、優人は身支度を整えていく。
とはいえ着替えは病院での診察を終えてからでも構わないので、一騎が気を利かせて持ってきてくれた自分の荷物を確認するぐらいだ。
「おーい優人」
鞄に手をかけた瞬間、保健室のドアが開く。振り向けばたった今出ていったはずの一騎がそこにいて、優人に向けて笑顔を向けていた。
その笑みは、何というか、とてもにやけていらっしゃる。
「……何だ、忘れ物か?」
「いやいや、お前にお客さんだ」
そう言って一騎が手で促すと、ドアの陰から進み出た人物は軽く会釈をして保健室に入ってきた。
雛だ。着替えもせず体操着にジャージ姿のまま現れた彼女はそさくさと優人の前まで来ると、またぺこりとお辞儀をする。
一騎はと言えば、にやけ面のまま「それじゃごゆっくり」と言い残して今度こそ足早に立ち去っていく。何かいらない気を回されたようで問い詰めたくなるが、とりあえず後回しでいい。
「どうした、空森」
この場には自分と雛しかいない。だから家での時のような砕けた雰囲気で尋ねると、雛もまた肩の力を緩めて口を開く。
「どうしたも何もないですよ。先輩の怪我が心配で、様子を見に来たに決まってるじゃないですか。それでどうなんですか?」
「これから病院で正確な診断はそこでだけど、多めに見ても二週間ぐらいで何とかなるとさ」
「痛みはあるんですか?」
「ずきずきとした感じはあるけど、無理に動かさなきゃそこまでひどくはないな」
「そうですか……大事にならなくて本当によかったです」
「そう心配するなよ。俺がどんくさくてボールに当たったってだけなんだし」
「……先輩のばか」
一騎に言ったのと似たようなことを言うと、雛はきゅっと唇を引き結んだ。
金糸雀色の瞳には憂いを帯びた輝きが宿り、その二つの輝きは真っ直ぐに優人へと向けられている。
「そこまで節穴じゃありません。……先輩は、私たちを守ってくれたんじゃないですか」
「……結果的にそうなったってだけの話だろ」
「それで納得すると思ったら大間違いです」
心配してくれるような、それでいて怒ってもいるような表情を雛は浮かべる。
まったく、一騎といい雛といい、どうしてこうも察しがいいのだろうか。
優人はため息を一つこぼし、包帯の巻かれた自分の手を見下ろした。
――避けれたかどうかで言えば、実のところ答えは前者だった。
いくら突然襲ってきたファールボールとはいえ、屈むなり身体の中心をズラすなりすれば避けることは簡単だっただろう。少なくともその程度の猶予は優人にあった。
けれど優人という障害物がなくなった場合、次に矢面に立つのは雛たちのはずだ。
傷跡でも残ったらそれこそ一大事な女の子二人に、部活でも頼りにされているスポーツマンの一騎。自分も含めたその四人の中で、誰が貧乏くじを引くのが最も後々の影響が少ないかを考えれば、それは優人で間違いないだろう。
そんな合理的な判断を下したまでだ。
「守ってくれたことは本当に感謝してます。けど、もっと自分を大事にしてください」
「……分かったよ。肝に銘じとく」
「本当に分かってるんですか、もう……。色々と大変でしょうから、何かあったら遠慮しないで言ってくださいね?」
「いいよ、そこまで世話にはならない」
「でも……」
「いいから、な?」
食い下がる雛の頭を、怪我したのとは逆の手でぽんと叩く。確かに利き手がこの有様だと日常生活に不便を感じるかもしれないが、雛が責任を感じる必要などない。自分で選択した結果なのだから、そのツケを払うのは自分だけで十分だ。
だから責任を感じやすい後輩を宥めるため、努めて落ち着いた表情で優人は言い含める。
そうして優人が頭から手を離すと、雛は――
「絶っっっ対に嫌です」
まさかの徹底抗戦の構えを見せた。
「……え」
「何ですかそれ、カッコいい顔で言ったからって今回ばかりは譲れませんからね?」
「や、あの」
「だいたい私が風邪を引いた時なんて、先輩は私が断っても看病してくれたじゃないですか。辛い時ぐらい周りを頼れ、先輩はそう言いましたよね?」
「おい空森、ちょっと落ち――」
「言、い、ま、し、た、よ、ね?」
「アッハイ」
二の句が継げない。どちからと言えば、目つきの鋭さで周囲を威圧する側である優人ですらたじろいでしまうほどの圧が今の雛にはあった。
「利き手がそれでは食事の用意だけでも一苦労でしょう。だから治るまでの間、私が先輩のお世話をさせて頂きます」
「……決定事項?」
あれよあれよと進んでいく話。恐る恐るの質問の答えは、もちろん力強い首肯だった。
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