第50話『マラソン大会』

 冬休みが明けて、三学期が始まり、学生たちは続々といつもの学校生活へと戻っていく。その内の一人である優人もまた、冬休み中にやや乱れた生活リズムを整えること早二週間。

 その日、優人の通う高校では全校マラソン大会が開催されていた。


 全校と言っても受験などで忙しい三年生は除外され、参加するのは一・二年の全生徒。学校をスタートとし、近所の広い河川敷などを中心に男子は十二キロ、女子は八キロの順路を巡り、最後にまた学校に戻ってくるという流れだ。

 上位成績者は表彰と粗品の進呈が約束されており、ついでに学業の他に部活動も盛んなこの高校においては、運動部のエースたちがしのぎを削り合う場だったりもする。


 現にスタート直後から彼らは足の速い先頭集団を形成して飛び出していき、とっくにその背中は見えなくなっていた。

 寒いのに元気だな、なんて真実他人事のように捉えつつ、文化部である優人は男子全体から見て中の下といった位置で自分のペースを維持して足を動かし続ける。


「お、特大ホームラン」


 学校近所の広い河川敷に差しかかった頃、優人と連れ立つように走る一騎が河川敷内の野球場の方を見て驚きの声を上げた。

 社会人のチーム辺りが試合中らしい。天高く舞い上がる白球と共に優人たちよりも一回り野太い歓声が上がり、遠目から見ても試合の白熱ぶりが窺える。

 その様子を一瞥した優人は前に向き直ると、少し荒くなり始めた息を整えながら口を開いた。


「お前はっ、トップ争いに加わらなくていいのかっ?」


 今となってはどこを走っているのかも分からない先頭集団の姿を想像しながら、一騎に問いかけた。

 剣道部の柱の呼び声も高い一騎は当然運動神経にも優れているからてっきり先頭集団の一人になると思っていたが、今もこうして優人のペースに合わせるように走っている。


「さすがに勝てる気しねえからなあ。そりゃすぐにへばるような鍛え方はしてねえつもりだけど、サッカーとか陸上とか、外で走り回ってるような奴ら相手だと分が悪い」

「エリスにかっこいいとこ見せてやるとかないのかっ?」

「そこら辺は大会で見せるから問題なし。無理に張り切って怪我したらそれこそ問題だから、こういうもんは気の置けない奴と気楽にやるに限る」

「そーかいっ」


 快活な笑顔を浮かべる一騎と違って優人は気楽とはいけない。

 授業が潰れる上に午前中には終わるのでマラソン大会自体はまあいいのだが、インドア寄りの人間にとってキツい行事であることに変わりはない。

 何より地味に悔しいのが、同じ距離を同じペースで走っている一騎の息はほとんど荒れてないことだ。普段から運動にかける時間が圧倒的に違うのだから張り合っても仕方ないが、こうも差を見せつけられると男としてのプライドが顔を出してくるというものだ。


 そんな優人の内心を見透かしたかのように、一騎はにやりと口元を歪める。


「ま、優人が亀みたいにノロくなったら先に行かせてもらうかねえ」

「ざけんなっ、そこまで弱くねえわ……っ!」

「おう、頑張れ頑張れ。先は長いぞ」


 挑発的な一騎の軽口に強く言い返し、優人は鋭い眼差しで前方を見据える。まんまと煽られただけの気もするが、ここで素直に引くようでは男ではない。








 一騎と共に順路を巡り、再び野球の歓声で賑わう河川敷のところまで戻ってきた。

 さらに白熱している試合模様を軽く眺めながら野球場の横を通り過ぎ、ゴールまでの距離を着実に減らしていく。ここまで来ると後発組の女子の姿もちらほらと見かけるようになり、マラソンが終盤なのも相まって全体的にペースは緩やかに。

 限界が来て歩き始める生徒もいる中、一騎というペースメーカーのおかげで優人は順調に走り続けられていた。


「ん? どうしたんだ、あれ」


 額を伝う汗を拭ったかと思えば、少し先を見た一騎が声を上げる。

 視線の先にいるのは、河川敷沿いの道端に座り込んでいる二人の女子。ジャージの色からして一年生であり、尻餅をついた一人に対してもう一人が様子を窺うようにひざまずいている。


「おーい、何かあったのか?」


 そこはかとなく漂う物々しい雰囲気に一騎が声をかけると、後輩女子二人が揃ってこちらを見上げる。背中を向けていて近付くまで分からなかったが、気付いてみれば跪いている方の女子は雛だ。

 そして雛も優人のことに気付いたらしく、金糸雀色の瞳がわずかに見開かれる。


 けれど目立った反応はそれだけ。いらぬ誤解を生まないよう学内ではほぼ関わりがないということで通しているので、優人に向けて何か声をかけるでもなく、雛は一騎の方へと顔を向けた。


「この子が足を挫いてしまったみたいで……。様子を見てるところなんです」

「先生は? 誰か呼びに行ってるか?」

「はい。一緒に走っていた子がもう一人いたので、この先のチェックポイントまで知らせに行ってもらってます」

「じゃあ、とりあえずここで待ってる方がいいな。どれ、痛みはどんな感じだ?」


 剣道部での活動故か、一騎は怪我の対処に関して人よりも詳しい。

 雛と位置を変えて一騎が簡単な問診を始める傍ら、手持ち無沙汰になってしまった雛の視線は優人とかち合う。


「そっちは大丈夫なのか?」


 この程度なら周りに勘ぐられることもないだろう。

 何も言葉を交わさないのも気まずいかと思って尋ねれば、雛は微かに表情を和らげて優人を見上げる。


「はい、私は特には。……だいぶ汗をかいてますけど、そちらこそ大丈夫ですか?」

「生憎とインドア派なもんでな。こういう行事は苦手なんだよ」

「そうなんですね。お疲れ様です」


 ただの先輩後輩といった体裁を保ったままの少し固い表情の中、わずかに親しみを含ませた声音で、雛は労いの言葉を口にした。

 その些細な変化を感じ取ることができたのは、これまでの雛との触れ合いの賜物だろうか。

 心臓の縁を細い指でくすぐられるようなむず痒い感覚――それを覚えた矢先のことだった。


 カキィィイン! とけたたましく響いた野球の打球音と焦ったような人々の声が、優人の背中の方から飛びかかってきたのは。

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