第52話『手は抜かない頑張り屋さん』

 病院での診察の結果、幸運なことに指の固定が外れるまでの期間は一週間と少しに下方修正された。完治の判断が下されるまでにはさらに数日かかるらしいが、その間も簡単なテーピングさえ施せば、日常生活を送る分にはさして問題もないとのことだ。

 保健室での応急処置から変わり、今や優人の指は包帯と固定用の医療器材で手厚く保護されている。適切な処置のおかげで痛みも減り、担当の医師からは意外な骨の丈夫さを褒められもした。習慣だった毎朝の牛乳カルシウムが功を奏したのかもしれない。


 とにもかくにも結果だけを見れば思いの外軽傷に終わり、優人は一つの懸念材料を抱えるだけで病院を後にすることができた。

 さて、ではその残った一つが一体何なのかと言えば――。


「今日はカレーにしようと思いますけど、先輩は辛さの好みってありますか?」

「特にこれってのはないが、強いて言うなら辛すぎない方がいいかな」

「私と一緒ですね。なら中辛のルーにしておきましょう」


 近所のスーパーにて、優人の隣でテキパキと夕食の買い物を進めていく雛のことである。

 何を隠そうこの後輩、ちゃっかり病院にまでくっついてきたのだから驚きだ。

 曰く、「先輩からの報告だけだと診察結果をごまかされそうな気がするので」とのこと。信用も何もあったもんじゃないと嘆きたくもなったが、頭の片隅でその手を使うことを少しばかり考えていた優人にとっては、ぐうの音も出ないほどの正確な指摘だった。


 保健の先生には「現場にいた当事者の一人なので」とか言って車に乗せてもらえるよう頼み込んだらしく、先生も先生で何かを変に察して快く承諾するのだから困ったもの。

 病院からの帰りにスーパーの近くで降ろしてもらった時なんて、とても微笑ましいものを見るようなほくほくの笑顔で優人たちを見送った。


 ほぼ間違いないなく色々と誤解された気もするが、恐らく訂正しても到底納得してくれないだろう。

 完治までの間、経過観察という理由で何回か保健室を訪れることになっている優人にとっては足が重くなる要因だ。


(空森、何かすげえ張り切ってるな……)


 カレールーの棚から場所を移し、二人は青果コーナーへ。

 優人のお世話とやらに相当力が入っているのか、雛は陳列台に山盛りで並べられているじゃがいもや玉ねぎを手に取っては、入念な吟味を重ねてカゴに入れていく。

 その真剣みを帯びた端正な横顔は綺麗で、同時に微笑ましくも思えた。


 ――今日の出来事は、降って湧いた幸か不幸か、果たしてどちらか。

 文字通り空から降ってきた野球ボールのせいで怪我を負ってしまったが、その分しばらく雛の手料理にありつけると考えれば、やはり幸運と言えるだろう。


 たかがカレー、されどカレー。

 いつの間にか今夜の夕食に期待で胸を膨らませている自分に気付き、優人はそっと苦笑を浮かべるのだった。








 スーパーから帰宅して一息つくと、部屋着に着替えた雛が優人の部屋を訪れた。

 約束通りカレーを振る舞ってくれることになり、早速台所の前に立った雛は手慣れた手付きで調理を進めていく。

 出来上がりを待つまでの間は手持ち無沙汰な優人であり、それならばと二月下旬に予定されている学年末テストに向けての早めの試験勉強に取り組むことに。

 怪我をした利き手の都合上簡単な暗記程度には留まるのだが、料理を作ってくれる雛がいる手前、暇だからと言ってただだらけてしまうのもどうかと思ったからだ。


 小一時間もすれば美味しそうなカレーの匂いが優人の嗅覚をくすぐり、その香りに釣られて台所に近付けば、料理中の雛は鍋の中身をお玉でゆっくりとかき混ぜていた。

 何度か見ているはずなのに、エプロンを着けた可愛らしい少女の姿というものにはそこはかなとない感慨深さがある。


「……見てて楽しいですか?」

「いや、空森の手付きって本当に丁寧だなと思ってな」


 自身に注がれる視線に気付いた雛が、ちらりと首だけで後ろを振り向いて尋ねる。

 気が散るというよりは単純に不思議だといった感じで、だから優人も素直に思ったことを口にした。

 冷蔵庫から飲み物を取り出すついでとかにちょくちょく雛の手元を覗かせてもらったが、相変わらず雛の手際は丁寧の一言に尽きた。


 例えば玉ねぎの炒め方。

 飴色になるまで炒めるとカレーが美味しくなる、という話を知っている人は多いと思うが、実際にそれを行うとなるとがくんと人数が減るのではないだろうか。

 何せ方法こそ単純でも手間と時間がかかるし、その行程を省いたからと言って不味いカレーが出来るわけでもない。

 優人だって趣味の菓子作りならともかく、言ってしまえば生きるためにやらざるをえない日々の自炊ではそうもいかない。


 けれど、雛はその手間暇を惜しまなかった。雛の真面目な人柄がよく現れているし、好ましく感じる部分でもある。


「丁寧、ですか」

「ああ。まさに基本に忠実、そのまま指南書に載せてもいいぐらいだ」

「……まさしくそういった本で習いましたからね」


 鍋をかき混ぜる手は止めないまま、凪いだ水面みなものような静かな笑みが雛に浮かぶ。

 少し寂しくも見えるその笑みについ意識が吸い寄せられ、その違和感の意味を問おうした優人だったが、それよりも早く優人の腹の虫が遠慮のない訴えを起こした。


 今度は身体ごと振り返った雛が、ぱちくりと目を開いて優人を見る。やがて彼女の目尻は柔らかく緩み、くすくすと抑えきれない微かな笑い声を唇の隙間からこぼした。

 優人の頬に熱が集まる。

 なるほど、いつぞやの雛もこういった羞恥心を感じていたのか。


「じきに出来上がりますから、もうちょっとだけ待っててくださいね?」

「……へいへい」


 からかうような声音と、まるで食いしん坊の小さな子供に送るような言葉。

 年下の割に堂に入ったその態度に言い返したくなったものの、大人しく頷く以外の選択肢は優人になかった。

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