第42話『一年の終わりと始まり』
「あ、雪」
年越しそばを食べ終えた優人が台所で簡単に後片付けをしていると、テレビを見た雛が小さな声を上げた。
お笑い番組からチャンネルを変えて都内の神社の様子を映しているテレビ中継には、ちらほらと画面を横切る白い粒の姿がある。
映像が切り替わって詰めかけている参拝客の姿を映すカメラになると、参拝客の何人かは顔を上げて空を指さしていた。
優人はお湯を出していた蛇口の栓を閉め、ベランダへ続く窓に歩み寄る。閉じられたカーテンを開ければ、ガラス一枚を挟んだ向こう側の世界は、空からしんしんと降り注ぐ雪の独壇場になっていた。
かなりの大雪だ。時間差でこちらの地域の方が早く降り始めたのだろう。
「わあ……すごい雪ですねえ……」
優人の隣に近付いた雛が感嘆の吐息を漏らす。
その拍子に雛の前の窓ガラスが白く曇り、そっと窓ガラスに手の平を置いた雛は「ひゃっ」と微かな悲鳴を上げてすぐに手を引っ込めた。かなり冷たかったらしい。
「こりゃ明日は積もるだろうな」
「ですね。木山さんが連絡してくれた電気屋さん、明日来れるんでしょうか……」
「あ、そういやエアコンの修理に来る予定だもんな。……もしダメだったら、またここに泊まってもいいぞ?」
「……考えておきます」
ぽぞりと呟いた雛の頬は赤い。
少なくともまた頼ってもいいと候補に挙がる程度には、過ごしやすい時間を提供できているようだ。
その事実に胸中で安堵の息をつき、優人は外を見る。
ゆらゆらと降り積もる雪を見ていると、何だか心が落ち着いてくる。
一年の終わりに相応しいとも思えるこの和やかな空気感は、たぶん一人では味わうことができなかっただろう。
「今夜は、ありがとうございました」
肩が触れそうで触れない距離で雛が呟く。
「どういたしまして。やっぱりこういう寒い日はあったかい部屋でゆっくりするに限るよな」
雛のお礼は、部屋の暖房が壊れてしまった彼女に温かい部屋を提供してあげたことに対するものだろう。
そう思って優人が答えると、緩やかな笑みを
「こうして先輩が一緒にいてくれることです。誰かと一緒に年を越すのって、いいものですね」
「……そうだな」
言葉の裏に隠れた寂しさに優人の胸は一瞬だけちくりとした痛みを覚えたけれど、すぐにそれは地面に落ちた雪のように溶けて消えていく。
過去はどうあれ、今の雛は身も心も温かな気持ちでいられることは彼女の笑顔を見れば明らかだった。
だから短い一言で相槌を打ち、優人は雛と共に空を見上げる。
いつしかテレビで始まっていたカウントダウンが一つ一つ時を刻み――やがて一つの年が終わりを告げ、新たな一年が産声を上げた。
「あけましておめでとうございます、先輩。そして、今年もよろしくお願いします」
「あけましておめでとう、空森。こちらこそよろしくお願いします」
日付が変わった瞬間、わざわざこちらに向き直って頭を下げた雛に、優人もまたそれに
テレビの中では新年を祝って参拝客が大盛り上がりしているのに、不思議とその音声は大して響いてこない。代わりに目の前の少女が口にした新年の挨拶が心の奥に沁み入り、得も言われぬ
顔を上げた雛の瞳には、どこまでも穏やかな
雛が控えめな欠伸を漏らしたのは、それからしばらくしてのことだった。
スマホのトークアプリで届いた新年の挨拶を返していると、同じようにスマホを操作していた雛の目尻に涙が浮かんでいる。
眼鏡を外し、手の平でこしこしと涙を拭う雛は何とも可愛らしい。
雛ほどではないにしろ、優人もそれなりに眠気を感じている。翌日が休みの時は割と夜更かし気味な優人だが、雛もいる以上は早めに電気を消した方がいいだろう。
「そろそろ寝るか?」
「そーですね……」
優人が尋ねれば、雛はほんのりと舌足らずな口調で答えた。この分だと早く床に
善は急げと優人がベッドのシーツ類を洗濯済みのものに取り替えていると、何やら眠気とは別の意味で雛が目を細めた。
「むう……あそこで番組の趣旨が変わらなければ、先輩に負けなかったでしょうに……」
「運も実力の内ってな。ほら、準備できたから入った入った」
「……失礼します」
勝負のことをまだ根に持っているようだ。
さすがに負けはきちんと負けと認めているらしく、交換したシーツ類を洗面所の洗濯カゴに放り込んた優人が戻ってくる頃には、雛は大人しくベッドの中に潜り込んでいた。
「寝苦しいとかあるか?」
「いえ……むしろ思ったよりも落ち着きます。……先輩、良いマットレス使ってます?」
「別に金をかけたつもりはないけど」
一人暮らしを始めるにあたっての家具一式の費用は両親に出してもらったが、特別高価なものにした覚えはない。強いて言えば『お値段以上』がキャッチコピーの店を選んだぐらいか。
微妙に腑に落ちないらしい雛はぼすぽすとマットレスを叩くのだが、結局すぐに諦めて横向きに身体を沈める。
首元まですっぽりと掛け布団の中に収め、深くゆっくりと息を吸って吐いた雛は端正な顔立ちをへにゃりと緩めて目を閉じた。
どうやらご満足頂けたらしい。さながらこたつに入った猫のように和んだ雛は見ていてとても愛らしく、このまましばらく眺めていたい欲求にかられる。
しかし、自分に被さる影がいつまで経っても消えないことに気付いた雛は目を開くと、掛け布団をささっと口元まで上げて優人を睨んだ。
「い、いつまで見てるんですか。先輩も早く寝てください」
「悪い悪い。じゃあ電気消すぞー」
頬を朱色に染めた雛に怒られてしまったので、優人はソファへの避難を余儀なくされた。
枕代わりのクッションと掛け布団でベッドとしての体裁を整えたソファに寝転がり、照明のリモコンを操作して常夜灯に切り替える。
小さなオレンジの光が室内をおぼろげに照らす中、頭上から小さな息遣いが聞こえる。
「……先輩」
「ん?」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
それで会話も終わり、優人は静かに両目を閉じる。
雛と一つ屋根の下で夜を明かすなんて、最初は落ち着かなくて眠れないかもと思っていた。けれど実際はそんなこともなく、微かに届く自分のものではない緩やかな寝息は、まるで子守歌のように優人を眠りの世界へ誘うのだった。
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