第41話『仕方のない人』
「やっぱり慣れないなあ、これ……」
微かに届くシャワーの音を聞きながら、優人は一人になったリビングでぽつりと呟く。
現在は雛が入浴中であり、疲弊していた彼女に気分転換も兼ねて風呂を勧めたらわりとあっさり腰を上げてくれた。また一番風呂は家主からだとかどうとか言い出さなかった辺り、さっきまでの恐怖体験は本当にダメージの残るものだったらしい。
少しムキになってしまったことを自戒し、それからどうにも落ち着かないので体勢を変えてソファに寝っ転がる。
自分が使っているわけではないシャワーの音というものは、相手が相手なだけに妙に想像力をかき立てられて辛い。
そういった想像をするのは雛の信頼に反する行為だと思って
そしてシャワーの音が止んだら止んだで、今度は湯船に浸かっている姿が思い浮かんでしまうのだから、いつまでたっても
そうして悶々とした内心と格闘し続け、新年の始まりまであと一時間といった頃、入浴を終えた雛が洗面所の方から姿を現した。
「お風呂頂きました。お湯も張り直したのでもう入れますよ」
歩み寄ってきた雛が、ソファで寝っ転がっていた優人を見下ろすように顔を近付けた。
入浴前にコンタクトは外したらしく、今はこれまでにも何度か見たことのある眼鏡姿。暖かそうなもこもこ素材のパジャマで上下をしっかり固めているけれど、それでも湯上がりの火照った素肌や頬に張り付いた髪にドキリとしてしまう。
首から下げたタオルで残った水分を拭き取る雛をつい目で追っていると、眼鏡のレンズの奥で金糸雀色の瞳がきょとんと瞬いた。
「先輩?」
「何でもない。ありがとな」
適当にごまかして身体を起こし、クローゼットから着替えを取り出す。
お湯の張り直しに関しては事前の取り決めであり、素直に礼を伝えて洗面所へと向かう。
リビングからの去り際にちらりと雛を見ると人心地ついたようにほっと息を吐き、クッションの上に座って髪のケアを始めていた。
血色の良い肌には生気が戻っており、少し前の恐怖はすっかり鳴りを潜めたようで何よりである。優人としても色んな意味で焦る体験だったのでさっさと水に流してさっぱりしよう。
「ふう……」
同じ入浴と言えど、男と女では時間のかけ方も違う。
雛よりも圧倒的に短い時間で浴室を後にした優人は寝間着のスウェットに着替えると、髪を乾かすのもほどほどにリビングへと戻る。
エアコンからの暖気が過ごしやすい室温を維持してくれる中、髪のケアを終えた雛はどうやら勉強に取り組んでいるご様子だ。
勉強といっても単語帳の暗記程度の簡単なものみたいだが、わざわざ持ってきたことには驚きを覚える。優人には到底真似できない勤勉さだ。
「冬休みの課題でもないのに勉強か。本当に真面目だな」
「ただの習慣ですよ。暗記系は寝る前にやるのが一番記憶に残りやすいですからね」
苦笑を浮かべた雛は引き続き単語帳に目を落とすと、ふと片手を上げて眼鏡の端にかかっていた横髪を耳にかけた。
ほんのりと色付いた耳が露わになり、ケアを終えたばかりの群青色の髪は傍から見ても抜群のさらさら感を誇っていた。
思わず自分の毛先を指でいじってみる優人だが、仮に雛と同じようなケアを施したとしても、あんな風になれるかは甚だ疑問である。
優人の様子をどこか訝しんだのか、単語帳から顔を上げた雛は胡乱げな眼差しを優人に向けた。
「どうしたんですか、先輩」
「ああいや、空森の髪ってさらさらして綺麗だから、どういうケアしたらそこまでなるんだろうなーって」
「……い、至って普通のケアで、特別なことはしてませんよ。そういう先輩は何かしてるんですか? 見たところドライヤーもかけてないみたいですけど」
「俺なんかはタオルと自然乾燥で十分だろ。まあ、あとで軽くはかけるけどさ」
お風呂上がりは基本的に動かずにまったりしたい優人がそう言うと、雛はやや呆れた様子でため息をついた。
「短いからって怠るのはいけませんよ? ドライヤーでの乾燥もできるだけ早い方がいいですし……先輩、ちょっとここに座ってください」
ぱたんと単語帳を閉じた雛は立ち上がって今まで座っていたクッションをぽすぽすと叩き、さらに壁際の荷物から自前のドライヤーとヘアブラシ、それから折りたたみの鏡を取り出す。
立ち尽くす優人。対して、準備を終えたかのようにさあさあとクッションに座ることを促す雛。
「……空森がやってくれるってことなのか?」
「ええ。ケアに興味があるみたいなので、その簡単なレクチャーも兼ねて」
「……お、お願いします」
あまりにも当然のように言われて頷いてしまった。
誘われるがままに優人がクッションの上に胡座をかくと、膝立ちの雛はその背後に陣取り、まずはヘアブラシは構える。
心なしか強く感じるようになった甘い香りに胸の片隅を
「ドライヤーかけてからブラシで整えるんじゃないのか?」
「タオルで拭いたばかりの髪は絡まってますので、まずはそれを解消するところから始めないといけませんよ。髪も短いので簡単に梳く程度ですから、少しだけじっとしててくださいね」
疑問に簡潔な答えを述べた雛はヘアブラシを優人の髪に当て、まずは毛先の方からゆっくりと滑らせる。
その手付きには心地良いものがあり、湿って無造作に跳ねてばかりだった優人の髪は徐々に規則正しい流れを取り戻していく。
本人の言う通り簡単な作業だったらしい。ものの二、三分で雛はブラシを置き、次にドライヤーを手に取って電源をオンにした。
「先輩って普段はどんな風に乾かしてますかー?」
静音仕様のドライヤー送風音が響く中、少し声を張り上げた雛からの問いかけに優人はされるがままの状態で口を開く。
「どうって普通にー? 特に意識してることないけどー」
「今私がやってるみたいに、最初は頭皮から乾かさなきゃですよー? じゃないと、先に毛先が乾燥しすぎて硬くなっちゃうのでー」
「分かったー、今度から気を付けるー」
お互い大きめの声で言葉を交わす間も続く雛の手付きには、淀みがない。細い五指の先が優人の頭皮を低刺激のマッサージのようにくにくにと刺激し、ドライヤーの温風を行き渡らせるように乾かす。
しばらくそうしてから狙いは頭皮から毛先へと移行し、雛の手櫛が優人の髪を一方向に梳かしながら全体的にしっかりと、入念に乾燥を進めていった。
粗方済んだところでドライヤーのモードを切り替え、上から下へ押さえつけるように冷風を数秒当てた後、雛はドライヤーを置いた。
「これでドライヤーは終わりです。最後にもう一度だけブラシをかけますね」
「頼む。それにしても、最後に冷風なんて当てるもんなんだな」
「そうですよ? 温風で終わりですと、髪の組織が開いたままで水分とかが抜けやすくなるので、冷風で組織を閉じて抜けるのを防ぐんです。そうすると髪に艶が出てまとまりも出ますから、寝癖だってつきにくくなります」
「へえ、それは良いことを聞いた」
「しっかり覚えてくださいね。――はい、これで完了です」
優人の髪から雛の手が離れる。本当に優しくマッサージをされてるような気分だった。
もう少し味わっていたかった、なんて口惜しさを抱えつつ、自分の髪の一房を指で弄ってみる。
「おー、なんかすっげえサラサラな感じ」
「そんな劇的には変わったりしませんよ」
「いやいや、そんなことないって。今までの自分がどれだけ適当だったかを思い知った」
「お世辞が上手いんですから……。ならこれからはちゃんとしなきゃですよ?」
「……自分だけだとサボりそう」
「先輩?」
「冗談だって、せっかく教えてもらったんだし。とにかく本当にありが――」
手ずから髪のケアをしてくれた雛にお礼を言うべく、優人はその場で振り返る。しかし、それは迂闊な行動だったとすぐに思い知ることとなった。
優人は胡座、雛は膝立ち。普段とは逆転した身長差と近しい距離が生み出した結果は、あまりにも刺激的。
――目と鼻の先に、ついさっきも優人を悩ました女性らしい柔らかさが存在する。
隔てるものはわずかな隙間と二、三枚の布地。
雛のパジャマを内側からふんわりと押し上げる膨らみは優人の手で覆うのにちょうどよさそうな大きさと丸みで、このまま顔を押し付ければ、その柔らかさで優しく受け止めてくれそうな誘引力があった。
マズった、俺は何を。
そんな風に焦って身構えた優人が視線を持ち上げた先、そこで待ち構えていたのは――
「もう、仕方のない人ですね」
呆れながらもこちらを優しく包み込んでくれるような、とても穏やかな彼女の笑顔だった。
弧を描いた口元に、ゆるりと下がった目尻。
部屋の照明を逆光として味方にした笑顔は年下とは思えないほどの色香と母性を醸し出し、優人が呆然と見上げることしかできずにいると、この距離感にまったく危機を感じてないらしい雛は「先輩?」と小首を傾げる。
その仕草が今度はあどけなくて可愛らしく、きょとんと優人を見下ろす金糸雀色の瞳は吸い込まれそうなほどに綺麗だった。
誰か、何か、この空気をどうにかしてくれ。
とてもじゃないが自分から脱する気になれない中、幸か不幸か優人の願いは天に通ずる。
――くううぅぅぅ……。
そんなちょっと間抜けな音色が聞こえてきたのは下の方、ちょうど雛のお腹辺りからだった。
鳴った途端に両腕でお腹を押さえて優人から距離を取った雛は、顔中を真っ赤に染めて愕然とした表情で優人を見る。
今さら隠そうとしても遅い上に、その反射行動が何よりの証拠だ。
「……晩飯足りなかったのか?」
「ち、違いますっ! 今のはたまたま……そう、たまたまなんですっ! さっき笑ったり驚いたりしたからカロリー使っただけでっ!」
「はいはい、どっちにしろ小腹が空いたんだろ」
「~~~~っ!」
縮こまってその場に座り込んでしまう雛。
色香や母性はどこかへ吹っ飛び、可愛らしさだけを残した彼女の様子に優人は安堵のため息をついた。
良かった。お腹の音に救われた。あのままだと欲望に負けてどうなっていたか。
もう一度大きく息を吐き、台所の戸棚からとある二つの物を取り出した優人は雛のところに戻る。
「空森、大晦日なんだしこれでも食べないか?」
まだ恥ずかしさは消えてないだろうからできるだけ穏やかな声音で、優人は持ってきたものを雛に見せつける。
それはミニサイズのカップそばだ。きつねと天ぷら、どっちかに決められず二つ買っておいたのが攻を奏した。
「どっちがいい?」
「……きつねがいいです」
「はいよ。すぐにお湯沸かすから、もうちょっとだけ我慢してろ」
「食いしん坊みたいに言わないでくださいっ」
唇を尖らせる雛に苦笑を返し、優人は年越しそばの準備を始めるのだった。
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