第39話『頑張り屋さんと過ごす年末』
というわけで。
「……お邪魔します」
「いらっしゃい」
芽依が帰ってから少しして、宿泊の準備を整えた雛が荷物と共にやって来た。
若干しどろもどろな彼女を再び部屋に迎え入れ、今日はもう外出する予定もないので優人は玄関の鍵を閉めようとする。
けれど、いつもやっているその行為に少し躊躇いを覚えてしまう。
防犯のための至極当たり前の行動だというのに、まるで雛を自分のテリトリーに閉じ込めてしまうような背徳感。
改めて雛が一泊するという事実を思い知ってしまい、心臓がその鼓動を否応無しに速めていく。
(……落ち着け)
深く息を吐いて気持ちは沈静化させる。
この期に及んでうだうだ言っても何も始まらないと割り切り、鍵を閉めてリビングへと向かう。
部屋の片隅に小さく荷物をまとめた雛は、優人の方へ振り返るとおずおずと上目遣いを向けた。
「……あの、やっぱりご迷惑でしたら帰りますよ? 木山さんの手前、先輩は断りにくかったでしょうし」
「……いいや、迷惑なんかじゃないから気にするな。寒い部屋で年越すのも辛いだろうし、好きにくつろいでくれ」
眉尻を下げた雛の頭をぽんと軽く叩く。
そう、雛だってこの状況に大なり小なり不安を抱えているはずなんだ。だったら自分が今すべきことは、雛が安心して年を越せるよう努めて普段通りに振る舞うこと。
優人のことを信頼してると言ってくれた、そんな後輩の想いに応えてこその先輩だ。
所在なさげに両手の指先を絡め合わせていた雛も、優人の態度で肩の力が抜けたらしい。まだ少し固さは残るものの、端正な顔立ちに緩んだ表情を含ませてくれた。
「それでは、お言葉に甘えさせてもらいます。お夕飯作るので台所お借りしますね」
そう言った雛は柔らかな笑顔を見せると、自前のエプロンを着用して台所の前に立つ。
少し弾んで見えるその後ろ姿はまるで奥さんのように見えて、よからぬ考えが思い浮かんでしまった優人は、やや上擦った声で「頼む」と告げるのだった。
「ごちそうさま」
「お粗末様です」
「悪いな、晩飯準備してもらって」
「いえ、お邪魔するわけですし、これぐらいはさせてもらわないとです」
今夜もまた味わい深い手料理を堪能した後、食器を台所の流しに運びながら雛にお礼を告げると、彼女は笑って首を横に振った。
させてもらわないと、と義務感めいた発言をするのが雛らしい。
とにもかくにも美味しい夕食を振る舞ってくれた雛に改めて感謝しつつ、適当にテレビでも見ながら食後の小休止を挟んでいると、雛がまた台所の前に立った。袖捲りをしているところを見ると、洗い物を片付ける腹積もりらしい。
「空森、洗い物なら俺がやるぞ?」
「お料理は後片付けまでちゃんとやってこそです。私が片付けますから、先輩はゆっくりしててください」
こちらに振り返った雛は落ち着いた笑顔で立ち上がろうとした優人を制す。
気負っているわけでなく、単純な善意なりからの行動だというのは表情で読み取れた。だが、さすがにこれ以上甘えてしまうのは優人の良心が許してくれない。
「いや俺がやるって。どっちかって言えば作った空森の方が疲れてるはずなんだから、ここは俺に任せろよ」
「自炊なんてほぼ毎日やってるんですから疲れてませんよ。先輩こそ私に任せてくれればいいんです」
「断る。この前晩飯食べさせてもらった時も空森がやったんだし、今日ぐらいは俺にさせろ。やってもらってばっかだと自分がダメ人間みたいに思えて嫌なんだよ」
「先輩をダメ人間だと思ったことなんて一度もないですから。あ、ちょっと、洗剤取らないでくださいっ」
「そっちこそスポンジ返せ」
始まってしまった押し問答。
そう広くない台所で器用に小競り合いをする優人と雛は、しばらく一進一退の攻防を繰り返す。やがてお互い埒が明かないことを察し、結局二人で肩を並べて洗い物を片付けることとなった。
「もうっ、先輩は強情さんですよ」
「空森だけには言われたくねえわ」
ぷんすかと頬を膨らませた雛が、スポンジでの汚れ落としとすすぎまでを。
呆れ顔の優人が、布巾で水気を拭うのと棚に戻すのを。
二人して未だ憎まれ口を叩きつつも、流れ作業自体はスムーズに進んで次々とシンクの中が空になっていく。
その最中、不意に手を止めた雛は台所周りをきょろきょろと眺め始めた。
「先輩、洗剤の替えってどこかにありませんか?」
「ああ、それならちょうど上の戸棚にあるぞ」
「上の戸棚……あ、これですね」
戸棚を開け、目当ての詰め替えボトルを見つけた雛が上に手を伸ばす。
しかし、優人準拠で構成された生活空間に加えてボトルが少し奥側に傾いていることもあり、雛の身長では指先が届きそうで届かない。
それでも必死に背伸びをして取ろうとする姿に微笑ましいものを感じつつ、雛の背中側にズレた優人は後ろからひょいと手を伸ばした。
「ほら。悪いな、高いところにあって」
ボトルをあっさりと手中に収め、それを雛へと差し出す。
自分の方が取りやすかったから取った。そんなごく当たり前の行動をしたつもりの優人だが、気づけば雛は何故か動揺したかのように目を泳がせていた。
「どうした?」
「い、いえ、今の先輩は何だか……男の人らしかったなと」
「え、何、普段の俺ってそんな女々しく見られてんの?」
確かに菓子作りが趣味というのは男っぽくないと思うが。
「そういう意味ではなくて……何でもないです、忘れてください」
「そういう言い方をされると気になるんだが」
「忘れてくださいっ」
ちょっと語気を強めにした雛は優人からボトルを引ったくる。
洗い物を再開した彼女はつんとした澄まし顔を浮かべるばかりで、雛が口にした言葉の意味も、微かに赤らんで見える頬の理由も、ついぞ訊くことはできなかった。
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