第38話『今年はただじゃ終わらない』
十二月三十一日。つまり大晦日の夕方頃、優人は自宅のキッチンでクッキー作りに勤しんでいた。
優人が着用しているエプロンは、もちろん雛から貰ったクリスマスプレゼントの一着。着始めてまだ数日しか経っていないというのに、もう自分の身体に馴染んだような気がするのだから不思議だ。
クッキー作りには、特に何か理由があったわけでもない。強いて言えば余っていた材料の処理と暇潰しを兼ねての行動で、冬休み中は料理同好会の活動がお休みな分、創作意欲が行き場を求めた結果ということもあるかもしれない。
クッキー生地の作成に使ったボウル等の食器の後片付けを終えると、ちょうど良くオーブンレンジが焼き上がりの電子音を奏でる。
レンジを開けると庫内の熱が放出され、優人は火傷に気を付けながらクッキーが並べられた天板を取り出した。
「――よし」
ほわほわと香るバターの香ばしい匂い。シンプル故に奥深いバタークッキーが無事に完成したことを確信し、優人は一人その場で頷いた。
(そういえば、初めて空森が食べたのもこんなんだったな)
今から約二ヶ月前、雛と初めて言葉を交わした時の記憶が蘇る。
後輩でしかなかった女の子が今やお隣さんで、しかも半ば偶発的とはいえクリスマスイブには二人でお出かけするような間柄になるとは、あの時はまさか夢にも思わなかった。
人生何が起きるか分からないとは、まさにこういうことを言うのだろう。
たった二ヶ月、されど二ヶ月。
まだ十数年程度しか生きていない優人にしてみても短い間だが、何だかずいぶんと濃く、そして思い出深い時間を過ごしたような気がする。
「後で空森に差し入れでもするか」
そんな一人言を呟いた後、優人の口元には苦笑が浮かんだ。
自然とそういった選択を取ろうとする程度には、雛のことを好ましく思っているらしい。
最初は優等生の美少女ぐらいにしか捉えていなかったのに、自分の中の彼女の認識もそれなりに変わったように思える。
頑張り屋で、律儀で、家庭的で、意外と食いしん坊で、たまにちょっと幼いところも垣間見せる女の子。知れば知るほど空森雛という少女は魅力的な異性で、どこか放っておけないような印象を抱かせる。
別に初めての日をなぞるわけでもないが、一年の終わりという日にはもってこいかもしれない。
「……それにしてもまだ肌寒いな」
クッキーは粗熱が取れるまで一旦放置しておくことにして、優人は室内を暖めているエアコンの温度を一度上げる。
今まで玄関に近い台所で作業していたとはいえ、今日の寒さはかなり厳しい。
朝に見た天気予報では夜中に雪が降るとのことだし、日が落ちていっそう厳しくなった寒さを考えればそれも頷ける。
個人で買い足さないかぎりこのアパートの暖房器具はエアコンだけなので、今日は一日中稼働してもらうことになりそうだ。
調理中は袖捲りしていた上着を戻し、優人は洗濯物を取り込もうとベランダの窓を開ける。
見上げた空は曇天も相まってかなり薄暗く、それこそ今にも雪が降ってきそうな気配だ。追い打ちをかけるように吹いた寒風に首を竦め、優人は手早く洗濯物を取り込んでいく。
そして、最後の一枚である肌着を手に取った時だった。
お隣さんの窓がからからと音を立てて開き、室内から顔を出す一人の少女。ちょっと困ったように眉を下げている彼女を不思議に思いつつ、優人は声をかける。
「よう、空森」
「あ、こんばんは先輩」
何か用事があるのか、挨拶もほどほどにベランダの隅でしゃがみ込む雛。どうやらスマホ片手にエアコンの室外機を観察しているようで、ベランダの柵から少し身を乗り出した優人は、そっと雛の様子を窺う。
「どうかしたのか?」
「……実は」
「雛ちゃんの部屋のエアコンが壊れちゃったかあ」
状況をまとめるとつまりそういうことで、座って後ろ手をついた芽依は簡潔に結果だけを述べた。
あれから、まずはアパートの大家である芽依に連絡を取り、彼女も交えて雛の部屋のエアコンや室外機をチェック。結局素人判断では原因も分からずじまいで、ご覧の通りのお手上げ状態になってしまった。
とりあえず暖房が効いている優人の部屋での小休止に移り、お茶請けがてら先ほど作ったクッキーを三人でサクサクとかじっていた。
「ごめんなさい。朝から暖房をつけてたんですけど、急に動かなくなってしまって……」
「そう気にしないでいいよ。原因が分かるまでは何とも言えないけど、雛ちゃんが手荒に扱ったってわけでもないだろうし。そもそも雛ちゃんが入居する時に、一度メンテナンスを挟まなかったのはこっちの落ち度だしねえ」
申し訳なさそうに頭を下げる雛に、芽依は笑ってひらひらと手を振った。
「それで、どうするんですか?」
「それに関してはさっき連絡――お、ちょっとごめんね」
どうやらすでに手を打っていたようだ。ちょうどその返答が来たらしく、スマホを耳に当てて通話を始めた芽依を見守ること約四、五分。
「――知り合いの電気屋さんに頼んで、修理の段取りはつけてもらったよ。ただやっぱり、来るのは明日になっちゃうって」
「まあ、大晦日ですからね……」
芽依の報告に優人はため息をつく。
何せ年の瀬の、しかもすでに夜と言っても差し支えない時間帯。普通ならとっくに仕事納めだろう。元旦から来てもらうだけでもありがたいぐらいだ。
「それなら十分ありがたいです。今日一日ぐらいなら、毛布にでもくるまっていれば」
『いやいやいやいやいや』
あっけらかんと言う雛に、優人と芽依は同時に待ったをかけた。
「雛ちゃん、今日かなり寒いからね? さすがに暖房器具無しはキツいよ」
「お前天気予報見たか? 今夜は雪が降るんだぞ」
「二人揃ってそこまで……。でも実際、他の方法もありませんし」
「そりゃまあ、そうだけどよ……」
今から急いで手頃な暖房器具を買いに行くという手もないわけでないが、時間的にも金銭的にもあまり得策とは思えない。
そうなってくると確かに雛が述べた選択肢ぐらいしか残されていないのだが、それではあまりにも悲しい年末を過ごすことになる。
どうにかならないものかと優人が頭を捻っていると、突如芽依がぱんと手を叩いた。
「ならさ、今夜だけ優人くんの部屋に避難するってのはどう?」
『え』
今度声が重なったのは優人と雛だ。
「芽依さん、それはちょっと……」
「そうですよ。そんな急に、先輩だって迷惑でしょうから」
「いやそこじゃねえよ」
「え?」
思わず真顔でツッコんでしまう優人だが、対する雛は素で首を傾げているようだった。この後輩、少々無防備が過ぎる。
「お前な、つまり男の部屋に一晩泊まるってことなんだぞ? もうちょっと警戒心持てよ」
暖房が健在である優人の部屋で一夜を明かす。実を言えばその選択肢自体は優人の頭の中にも浮かんでいたが、当然すぐに却下していた。
だって年頃の男女が一つ屋根の下で二人きりなんて、常識的に考えて問題だ。
ただ部屋に上げるのとはわけが違う。その気になれば、優人が雛の寝込みを襲うことだってできてしまうのだから。もちろんしないけども。
その辺りのことを視線に込めて雛に送れば、ほのかに頬を色付かせた彼女は躊躇いがちに口を開く。
「それはそうですけど……先輩だったら信頼できます、から」
「だからってなあ……」
信頼してくれるのは光栄だが、物には限度というものがあるんじゃなかろうか。
「ってか、避難するならそれこそ芽依さんの家でもいいじゃないですか」
「そうしたいのは山々なんだけど、私の家にも友達が来ててさー。そこに雛ちゃんもっていうのは、さすがにお互い気まずいかなと……」
それはまあ、確かにその通りだ。
友人同士なら積もる話もあるだろうし、そういった意味ではある程度気心が知れる優人の部屋の方が雛にとってはいいかもしれない。
正直、困っている雛の宿泊を頑として断るのも心苦しいものがあったりする。
結局のところ、争点はお互いの気持ち次第なのだろうか。
「実際どうなの? 二人それぞれの意見は」
「俺はまあ……空森がいいって言うんなら……」
「私は……先輩がご迷惑でなければ……」
『…………』
答えは、決まった。
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