第35話『もうちょっとだけ』
「ご来店ありがとうございました」
どこか誇らしい表情でそう口にした店員に見送られ、優人と雛はデザートビュッフェ店を後にした。
店員の腰を折った礼が心なしか深く丁寧に思えるのは、きっと直前の雛の行動によるものだろう。
『とても美味しかったです。今夜はありがとうございました』
安奈と交わした口約束程度の会話すら忘れず、雛は店員に向けて心からの笑顔と賛辞を述べた。
横で見ていた優人ですら一瞬見惚れてしまったのだから、真正面から向けられた店員の心に与えられた破壊力は計り知れない。相手が女性だったから良かったものの、これが異性である男性だったらどうなっていたことか。
「はあ……美味しかったあ……!」
最寄りの駅まで向かう道すがら、すっかり夜の闇が濃くなった寒空の下で、隣を歩く雛が空へと両腕を大きく伸ばす。店で体験した興奮はまだ余韻を残しているのか、全身を微かにふるふると震わせているのが何とも可愛らしい。
これで雪の一つでも降れば、寒さで赤らんだ頬や幸福で彩られた表情も合わさってさぞ絵になることだろうけど、生憎と今年のクリスマスイブは終日晴れ模様である。
微妙にもったいないものを感じながら頬を緩ませた雛を眺めていると、やがて優人の視線に気付いた彼女は顔をほんのりとりんごの色に染めて腕を下ろした。
白い手が、ニットセーターの上から満足そうにお腹をさする。
「もうお腹いっぱいですよ」
「そりゃあんだけ食べたらなあ。空森があそこまでイケるとは思わなかった」
「何ですかその目は、太るとでも言いたいんですか」
「そんな水を差すようなこと言わねえよ。普段から食生活には気を付けてるみたいだし、今夜ぐらいは無礼講ってことでいいだろ」
「ならいいです。もし無粋なことを言ったら、先輩のお腹を小突いてやろうと思ってました」
「俺も結構食べたんで勘弁してくださーい」
雛はもちろんのこと、優人だって大いに食事を楽しんだからお腹だって膨れている。割と苦しいものも感じている手前、下手な刺激は勘弁して欲しい。
おどけたような優人の態度に雛はくすりと笑みを浮かべると、ふとため息には及ばない緩い息を吐き出した。
「まさか先輩のお母様が出てくるとは思いませんでしたけどね」
「それに関しては俺も予想外だったよ。ああ、あくまで友人として来店しただけだってのは口酸っぱく言っといたから、そこは安心してくれ」
「…………」
「空森?」
「あ、はい……あ、ありがとうございます」
何だか微妙に煮え切らない様子の雛。
気になりはしたが、すぐにその表情を引っ込めて前を向いてしまったので、優人も深い追求はしないことにした。
それから、あれが特に美味しかった、これに驚いた、なんて他愛もない感想を交わし合っていれば最寄りの駅へと到着した。
「さてと、じゃあこれで帰るか」
クリスマスイブという日のせいでこれから夜の街に繰り出そうとする人の姿も多く見受けられるが、時間としては良い頃合いだと思うし、用件だってもう果たしたのだ。
恋仲でもない相手をあまり長時間連れ回すわけにもいかないと思って雛に尋ねると、まるで改札へ促す優人を引き止めるかのように、雛はその場に立ち止まった。
「空森?」
「……えっと、その」
優人と地面を行ったり来たりする金糸雀色の瞳。覚束ない視線の往復はとても忙しない。
やがて手提げの紙袋を持った手を胸に当てて深呼吸をした雛は、小さな舌で唇を濡らしてから、ゆっくりと口を開いた。
「もうちょっと、寄り道しませんか?」
かさり、と紙袋が音を立てた。
駅前から徒歩数分、やってきたのは街路樹の立ち並ぶ長い遊歩道だった。
クリスマスシーズンらしく街路樹はきらびやかなイルミネーションで装飾されており、訪れた人々をその光の芸術で魅了している。
当たり前と言えば当たり前の話だとは思うが、夜も深くなってより一層カップルの姿が目に付くようになった。
幸せを共有するかのように腕を組んだり、イルミネーションを背景に写真を撮る姿などがちらほらと見受けられる。
そんな中、優人は雛と並んで歩いていた。
拳約二個分の、恋人としては遠く、友人としては近いような気もする微妙な距離感。それを維持しながら、人の流れに沿ってゆっくりと歩く。
「綺麗ですね……」
「そうだな」
思わずといった様子で雛がこぼした感想に同意して頷く。
雛が寄り道を希望したのは、このイルミネーションを見たかったからなのだろうか。そういえばデザートビュッフェ店の壁に宣伝チラシが貼ってあったっけか、なんて今さらに思い返しながら、幻想的な光景に目を楽しむ雛の姿を横目で盗み見た。
――正直イルミネーションより、彼女の表情を見ている方がよっぽど有意義に思えた。
イルミネーションの色や明暗が変わるたびに新鮮な反応を見せ、子供のように澄んだ瞳を輝かせている。
ただでさえ人目を引く顔立ちにさらに魅力を上乗せされ、優人の意識に鮮烈に焼き付いていった。
周囲を歩く人々は、それぞれ自分のパートナーに視線を向けている。自分一人だけが雛の表情を一人占めしていることに恐れ多くすらなるけれど、かといって目を逸らす気にもなれなくて、雛の意識がイルミネーションに向いているのいいことに結局彼女ばかりを見てしまう。
そんな夜の散歩の終着点は、イルミネーションで輝く円形の噴水がある広場だった。
自販機で温かい飲み物を購入し、近くに設置されていた木製のベンチに二人で腰を下ろす。微妙にベンチの幅が短いせいか、拳約二個分の距離は半分に減った。
ペットボトルの緑茶で一息つきながら、同じようにミルクティーに口を付ける雛に目を向ける。
「寄り道って、イルミネーションが見たかったのか?」
「いえ、特別そうというわけではなかったんですけど……あのまま帰ってしまうのは、ちょっともったいない気がして」
「そっか」
「ごめんなさい、寒い中、先輩を付き合わせてしまって。私のわがままでしたね……」
そう呟いた雛が足下に視線を落とす。その姿が無性にいじらしく思えて、優人の手はほぼ無意識に雛の頭に伸びた。
ぽんぽん、と手触りの良い群青色の髪の上から下がり気味の頭を叩く。
「……先輩?」
「これぐらいなら安いもんだよ。俺も今夜は色々と楽しませてもらってるし。だから、わがままだなんて言うな」
常日頃から色々と頑張ってる彼女なのだ。こういう日ぐらい、わがままの一つや二つ好きなだけ言えばいい。それぐらいいくらでも応えてやると、すんなりそう思える自分がそこにいた。
「……ありがとうございます。先輩は、優しい人ですね」
「まあ、せっかく親がくれた名前に恥じない程度にはならないとな」
「ふふ、もう十分なれてると思いますよ――
ほんのりと甘さを含んだような声音に囁かれ、優人の心臓が微かに跳ねる。
どくどくと早まる血流を鎮めようとする中、その原因をもたらしたイタズラな後輩は次の動きを見せた。
「先輩……これ、受け取ってもらえませんか?」
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