第29話『お互いに舌鼓』
突然の雛の申し出からしばらく、部屋に上がった優人がクッションに座ってじっと待ていれば、何の変哲もなかったローテーブルがみるみる豊かな食卓へと変貌を遂げていく。出来上がった料理を次々と運んでくる雛の動きは実にスムーズであり、この部屋のキッチンを完全に我が物としているところを見ると常日頃から自炊に取り組んでいることがよく分かる。
ほどなくして全ての料理が並び終わり、優人の対面に腰を下ろした雛が促すようにそっと平手を向けて見せた。
「お待たせしました。どうぞ召し上がってください」
「おお」
料理面での雛の手際はすでに一度味わった身である優人だが、それでも目の前に広がる光景には感動すら覚えてしまう。
ホカホカに炊き上がった白米、
日本の和食のお手本ともいえる食卓。あとはプロのカメラマンにでも写真を撮ってもらえば、料理本の表紙を飾れること間違いなしの完成度だ。
おまけにこれらが全て美少女の手腕によるものなのだから、男としては胸にぐっとこみ上げるものを感じざるをえない。
「先輩のお口に合えばいいんですけど……」
まじまじと食卓を眺める優人に不安を感じたのか、足の間に両手を挟んだ雛がもじもじと身体を揺する。
「そんな心配すんなよ。むしろこれで合わなきゃ嘘だろ」
「なんだか先輩を見てると、ハードルがどんどん上がっていく気がするんですが……」
そんなに期待に満ちた目をしていたのか、と優人は眉根に手をやるものの、こればっかりはもう仕方がないだろう。
それなりだったはずの腹の虫が急激に不満を訴えてきたので、優人はさっそく箸に手を伸ばす。少し遅れて雛も箸を手に取った。
『いただきます』
示し合わせたわけでもないのに二人の声は重なった。
どこか小気味良さを感じる始まりを迎えた夕食の一口目として、優人が選んだのは味噌汁だ。薄く輪切りにしたネギが浮かぶ水面を箸で軽くかき回し、ゆっくりとお椀を傾けて口に含む。
優人がよく飲むインスタント製品とは違う、だしと味噌の風味がやわらかく広がっていく味わい。いつぞやの引っ越しそばの時にも思ったが、恐らく雛はだしの取り方が上手いのだろう。
そのまま白米やきんぴらなどに順繰りに口をつけ、いよいよ本命の肉じゃがに箸を伸ばした。
摘んだ一口大のじゃがいもは煮崩れせずに綺麗な形を保っており、そのくせ口の中で咀嚼すれば味はしっかりと沁み込んでいるのが分かる。
肉じゃがの煮汁も雛が手ずから調味料を組み合わせて作ったものだと思われるが、その濃さは狙い澄ましたかのようにちょうどいい塩梅である。お口に合えばどころか優人の好みにドンピシャだ。
育ち盛りの男子高校生の例に漏れず、野菜よりも肉が好きな優人ではあるが、これならば野菜の方に軍配が上がる。じゃがいものみならず他の野菜もまた美味しいだろう。
次はにんじんにでも手をつけようかと思案していると、ふとこちらに注がれる雛の上目遣いに気付く。
「美味いよ」
「……良かったです」
美味に流されてうっかり言い忘れた言葉を、しっかりと作り手に届けるように雛の目を見て伝える。
優人の賞賛に雛はやわらかく瞳を細めると、
「この肉じゃが本当に美味いなあ。気を付けないと一人で食べ尽くしそうだ」
「お鍋の中にまだおかわりもありますから、遠慮せず召し上がってください」
「いいのか? 今さらだけど、食べる量を男一人分も急に増やして」
「作り置きも考えてたくさん用意してましたし、むしろちょっと作りすぎたかなって思ったぐらいなのでちょうど良かったです」
「そっか。じゃあ遠慮なく頂くとするかな」
「はい、どうぞ」
雛が柔和な笑顔を見せる。恐らく自然と浮かんだであろう喜びを含ませた微笑みにくすぐったいものを感じながら、優人は降って湧いた
満足のいく夕食を堪能した後、頬を緩ませて食器をキッチンの流しへと下げた雛はデザート用の小皿に乗せたアップルパイ片手に戻ってきた。
約二、三人分はあるアップルパイは一度に食べ切れる量ではないので雛が持ってきたのは一人分に切り分けたものであり、残りは冷蔵庫で保管することになった。
冷蔵なら三日程度は持つので雛一人でも十分消費できるだろう。
ちなみに「先輩も食べますか?」と雛に問われたが、元々雛へのご褒美として作ったものだし、直前の夕食で優人の胃袋はほぼ限界に達していたので丁重にお断りさせてもらった。
許しを得たとはいえさすがに詰め込みすぎたな、と結構苦しいお腹をさする優人が見守る中、座った雛は金糸雀色の瞳に期待を宿しながらフォークを手にした。
「晩飯食べてすぐ後なのに大丈夫なのか?」
「甘い物は別腹です。それに私は先輩みたいにお腹が苦しくなるほど食べてませんし」
「左様で」
ほんのりと笑いを混ぜた雛の苦言に優人もまた軽く笑って答えた。
同年代よりは大人びた印象の雛だが、こういうところはしっかり年頃の女の子だ。「どうぞお好き」にと優人が平手で促すと、律儀に「いただきます」と呟いた雛はフォークの横の部分をアップルパイへ押し付ける。
予めオーブントースターで軽く再加熱を施されたパイ生地は最初こそ固い抵抗を見せたものの、すぐにサクッと軽やかな音を立てて中身のりんごごと分断され、一口大になった部分が雛の小さな口の中へと運ばれていく。
はむっ、そしてもむもむと控えめに上下運動を繰り返す雛の口回り。思わず優人がその様を凝視してしまう中――やがて彼女の口元は、やわらかな微笑みで彩られた。
どうやらお気に召して頂いたらしい。ご褒美としての役目を無事果たせたことに胸を撫で下ろし、優人は二口目に取りかかった雛を静かに見守る。
眼鏡のレンズを通して見える金糸雀色の瞳は穏やかな光を宿し、浮かべる表情はやわらかく緩んだもの。
実に美味しそうに食べてくれる雛の反応は作り手の優人にとって何よりの報酬であり、これぐらいは許されてもいいだろうとテーブルに頬杖を突いて眺めさせてもらう。
しばらくして優人の視線に気付いた雛がぱちりと
「……な、何でそんなにじっと見つめてるんですか?」
「いや、美味そうに食べてくれるなあって」
「実際美味しいんだからしょうがないじゃないですかっ。……何だか馬鹿にされてるような気がします」
「してねえよ。なんかこう、見てて微笑ましくなってくるというか」
「それが馬鹿にしてるっていうんですっ」
ぷりぷりと頬を膨らませる雛は若干乱暴な手付きでアップルパイにフォークを突き刺し、それをそのまま優人の方へと突きつける。
俗に言う『あーん』の態勢に優人が面を喰らう中、雛は赤ら顔のままさらにずいっと腕を伸ばした。
「……空森さん?」
「先輩も食べれば分かりますから。きっと私とおんなじ顔になりますから」
「いや作ったの俺だし、なんなら味見だって――」
「食、べ、て、く、だ、さ、い」
圧が凄い。つり目がちの雛の瞳はさらにつり上がり、優人の口内へ強引にねじ込まんばかりの勢いでアップルパイが迫ってくる。
さっきまでのやわらかな雰囲気はどこへすっ飛んでしまったのか。そんな一抹のむなしさに浸る間もなく、年下の女の子の圧力に情けなく屈した優人は口を開けてアップルパイに噛みついた。
「どうですか」
「
せめて咀嚼するぐらいの猶予は与えてくれないだろうか。依然として衰えない圧に急かされながら口回りの筋肉を高速で動かし、ごくんと飲み込む。
しばしの静寂が室内を支配し、ややあって雛はむすぅーと眉を八の字に曲げた。
「……何で平然としてるんですか」
「無茶言うなや」
我ながら美味しいとは思うがすでに知っている味なのだ。
美少女の雛みたいに魅力的な表情を浮かべることはできないし、そもそも蛇に睨まれた蛙状態に片足を突っ込んだ現状では到底叶うわけもない。
どうせ作り笑いでお茶も濁してもすぐに見抜かれるだろうから、結局優人は甘んじて雛に睨まれ続けるしかなかった。
……ところで、一つ不思議なことが。
雛に食べさせられたアップルパイは、味見した時よりも、なぜか甘く感じた。
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