第26話『頑張り屋さんの胸の内』

 ――体調を崩した時、雛は決まって同じ夢ばかりを見る。


 小さい頃の、もうずいぶんと昔の出来事のリプレイ。自分が置き去りにされたあの日の記憶。


 リプレイといっても、過去を正確になぞっているわけじゃない。時間や場所は一定でなくぐちゃぐちゃだし、相手の顔だってもやがかかったようにはっきりとしない。なんだったら当時の幼い自分は、置き去りにされた実感すら抱いていなかったはずだ


 けど今は、夢の中の相手が二度と自分の前に姿を現そうとしないことがよく分かる。

 だから雛は必死に手を伸ばして、引き止めるための言葉を尽くして、でも結局何一つ届かない。その終わりだけは毎回変わることがなかった。


 ずっと同じことの繰り返しだ。

 小さい頃の話で、とうに過ぎ去った過去で、今さらどうにもならないことだと理解しているはずなのに、弱った身体に心が引っ張られるとこうして雛のことをさいなんでくる。


 結局あとに残るのは、胸の奥にぽっかりと空洞ができたような喪失感だけ。

 諦めて付き合っていくしかない。きっと慣れる日も来る。いつしかそう割り切って現在いまを歩んでいた。


 ――だから、穏やかな気持ちで目を覚ますことができたその日は、本当に不思議だった。







「……ん、ぅ」


 薄く目を開けると、そこには最近ようやく見慣れてきた天井が広がっている。


 身体はまだだるくて、頭もちょっと痛い。でも数時間前に比べたらだいぶマシで、ぱちぱちと数回瞬きを繰り返すと、自分の目尻が涙で濡れているのが分かった。いつもの夢を見た証だ。


 ……ただ腑に落ちないなのは、心の中が不思議とぽかぽかしていることだ。いつも感じる喪失感のようなものはあるのに、今まで感じたことのない温かな気持ちがその穴を埋めてくれているように思える。


 なんだろう、これ?

 頭を捻っても答えは出ない。代わりに雛の頭の中に浮かんだのは、左手に感じる違和感だった。


 布団や暖房とはどこか違った温もり。その正体を探ろうと首を横に向けて――


「ふぁっ」


 びっくりした。もうほんっとびっくりした。

 だってすぐ近くに寝ている男の人がいて、あまつさえ自分と手を繋いでいるのだから。

 意識が一気にトップギアに入り、色んな情報が雪崩なだれのように雛の頭を駆け巡る。


(な、なんで先輩っ!? あ、そっか、看病してもらって……私、いつの間にか寝ちゃって……でもなんで手……あれ、というかこれ、私の方から繋いじゃってる……っ!?)


 頭を埋め尽くす疑問符の数々。色々と混乱ばかりの状況なくせに、日々の勉学で鍛えた雛の頭脳はその一つ一つに的確かつスムーズに答えを出していく。


 一通りの状況の整理を終えた雛はベッドの中で深呼吸を繰り返し、沸き立つ熱を続々と排出して心と身体の沈静化を図った。


(先輩だって疲れてるはずなんだから、帰ってくれてもよかったのに……)


 とりあえずこの場の現状から考えるに、優人は雛が眠った後も様子を見るために残ってくれたらしい。

 昼食を始めとする諸々の面倒を見てくれただけでも十分ありがたいというのに、こうして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれることには申し訳なさを覚えてしまう。


 それがどうして手を繋ぐまでになったのかと尋ねたくなるが、なんとなく予想もつく。


 雛の脳裏を掠める夢の中身。

 たぶんだけれど、さっきまでの自分はうなされていて、それを見た優人が気遣ってくれた結果がこれなのだと思う。


 少なくとも雛の寝込みを狙って不埒な真似に及んだとかではないはずだ。直接見たわけじゃないけれど、素直にそう確信できるだけの信頼が雛にはあった。


(先輩、寝てるよね……?)


 体勢を変えて優人の方へ身体の中心を向ける。もう手を離してもいいのにその気になれなくて、優人のうたた寝にかこつけて感触を確かめてしまう。


 女の自分とは似ても似つかない、おっきくて骨張った男の人の手。ごつごつしているのに不思議としっくりくる触り心地で、雛はいつしか優人の手に自身の両手を添えていた。


 手のひらや手の甲、指先、手首回り、その一つ一つに触診するように指を走らせる。自分との違いで顕著なのはやっぱりその大きさで、そっと力を加えて優人の手を開くと、雛はそのまま自分の手のひらを重ねた。


(おっきな手だなあ……)


 優人の手の輪郭内にすっぽりと収まる自分の手。年齢的には一つしか違わないのに男と女なだけでこうも違うのだから、人間って不思議だ。


 ある種の感動すら覚えていると、不意に眠る前の出来事が思い起こされる。

 そういえば頭を撫でられたのだった。撫でるというよりはかき回されたといった方が正しいかもしれないが、とにかくこの大きな手でわっしゃわっしゃとされた。


 その時は突然のことだったし、気恥ずかしさやら何やらもあってつい睨んでしまったけれど……今にしてみればちょっと気持ち良かったかもしれないなんて、思ったり、思わなかったり。


 どっちつかずの自分の感想にもやもやする。試しにもう一度味わってみればはっきりとするかもしれないと、雛は優人の手をゆっくりと持ち上げた。


 一回だけ。頭の上に置いてみるだけ。そうすれば納得できそうな気がするから。


 心の中で適当な言い訳を並べ続ける雛の頭にいよいよ優人の手を触れさせようとした、その瞬間。


 ピンポーン。


「――っ!」


 突然のドアチャイムにビクつく雛の身体。予期せぬ第三者からの横槍に見事なまでにびっくりしてしまい、慌てて優人の手を降ろして両目を閉じる。

 優人はすぐに目を覚ましたらしく、欠伸の後に雛の方へ視線を向ける気配を感じた。


 寝顔を見られているという事実に、頬に熱が集まっていく。


「……まだ寝てるか」


 いえ、ばっちり起きてます。


 けど今さらそんなこと言えないし、おまけに優人の手を両手で握ったままの状態なのだから余計に目を開けられない。

 即座に寝たフリへと移行した雛の演技は幸い見破られることもなく、二度目のインターホンが鳴ったところで優人の手が離れた。ちょっと寂しく感じてしまうのは、きっと風邪のせいで人肌が恋しくなってるからなだけだ。


 玄関口から聞こえる会話に耳を澄ませつつ、優人が離れた隙に身体の向きを変えておく。


 学校の人には引っ越しのことを伝えてないし、特に宅配便が来る予定もないのでセールスの類かと思ったが、どうやらやって来たのは芽依だったらしい。

 そう時間も経たないうちに優人は戻ってきて、また台所に向かって何かしらの作業を始めた。


 そうして雛が一貫して寝たフリをしている間にも優人の作業は進み、やがて終わりの時が来る。


「ゆっくり休めよ」


 背中を撫でる優しい声音に、胸の奥がきゅっとなった。

 優人がいなくなってたっぷり十分、ちゃんと帰ったことを確認してから雛は身体を起こす。

 買ってきてもらった体温計で熱を計ってみたら、雛の平熱よりもやや高めの数値が表示された。


 ……おかしい、感覚だけならもうちょっと高くてもいい気がするのに。


 頬に手を当てながら雛はいぶかしんでいると、枕元のペットボトルの下に挟まれた一枚のメモが目に入った。


『とりあえず帰るけど、キツかったらすぐに連絡しろ。なんなら壁ドンでもいい。あと冷蔵庫の中にりんごが入ってるから(芽依さんからの差し入れ。お大事にだとさ)、良かったら食べてくれ』


 几帳面そうな字で書かれた文面の下には、電話番号やメールアドレス、無料トークアプリのIDが残されていた。

 メモの通りに冷蔵庫を開けるとラップにかけられた器があって、綺麗に切り分けられたりんごが盛られている。


 まさかのうさぎカットだ。失礼なのは重々承知しているけれど、目つきに似合わない可愛らしい心遣いに小さく吹き出してしまう。

 まだそんなにお腹は空いてないけど、せっかくだし少し食べてみたくなった。


 カットされた内の一つ――いや一匹?――を手に取って、ぱくりと噛み付く。果汁たっぷりの瑞々しい果肉にはしゃりしゃりとした新鮮な歯応えがあった。


 そして何より、とても甘くて、美味しかった。

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