第25話『新しい繋がり』

 ――ンポーン。


 微睡まどろみに沈んでいた優人の意識を聞き覚えのある電子音がすくい上げると同時、手の方から変な震えを感じた。


 重く感じる瞼を持ち上げれば、目の前に広がっているのは自分の部屋と同じ間取りの、けれど見慣れぬ室内。

 寝起きの覚束ない思考が今日の出来事を順繰りに思い返していき、雛の部屋で看病をしていたことまで行き着いたところで、優人は大きな欠伸あくびをこぼした。


 いつの間にかうたた寝してしまったらしい。


 今日は体育の授業に雛のための買い出しと優人には珍しく走ってばかりで、身体にはそれ相応の疲れが蓄積している。そんな優人にとって、雛のために十分な暖房を効かせた室内は睡眠欲を満たすのにちょうどいい空間であった。


 そして繋いだ手から伝わる温もりが、何よりも優人の心を落ち着かせた。

 喉からこみ上げた欠伸を今度は噛み殺し、優人は静かに隣の様子を窺う。


「……まだ寝てるか」


 未だ繋がれたままの手の向こう側にある、可愛らしさと美しさが見事に同居した少女の寝顔。

 微妙に頬の赤みが濃く見えることに一抹の不安を抱いたが、寝息はお手本なまでに規則正しいリズムを刻んでいるし、表情にも先ほどのうなされているような感じは見受けられない。

 症状がぶり返したわけではないみたいなので、ひとまず安心していいだろう。


 ……強いて気になる部分を挙げるのならば、優人の手を掴んでいた雛の手が寝ている間に片手から両手に増えていることだろうか。

 掴むといっても添えられている程度の力加減だし、優人の方から差し出したわけだから別に構わないのだが、寝起きにこれは――いや寝起きでなくとも心臓がざわつく。


 男の自分とは似ても似つかない、ちっちゃくてなめらかな女の子の手。アイドルの握手会にファンが殺到する気持ちが今なら理解できた。

 これは確かに、それだけの価値があるかもしれない。


 ピンポーン。


 微妙に健全でない考えを優人が浮かべていると、今一度聞き覚えのある電子音が鳴った。


 来客を告げる部屋のドアチャイム。

 半ば反射的に腰を上げようとしたところで、優人ははたと気付く。


(……あれ、これマズくね?)


 雛の部屋のチャイムを鳴らすということは、当然玄関の向こうにいる訪問客は雛に用があって来たわけだ。

 宅配便の類ならこの場かぎりで終わる話なのでまあ問題ない。しかし、もし相手が雛の様子を見に来た心優しいクラスメイトとかだったらどうする。

 引っ越したことは大っぴらにしてないと思うのでその線は薄いが、万が一そうだったら優人が迂闊に対応すると大問題に発展する。


 一人暮らしの女の子の部屋から出てきた年の近い男――どうしたって関係を邪推されるに決まってる。逆の立場だったら優人だってする。


 優人の背中を冷や汗が伝い落ちる。


 居留守を使うか? けどクラスメイトだったら、風邪を引いた雛が在宅してないことを不審に思うはず。返事がないことを深刻に捉えて救急車を呼ばれたらそれこそ大問題。


 一か八か『雛の兄だ』とか言ってこの場を乗り切るか? いや、後々面倒を背負い込むのは雛だし、そもそも彼女とこんな目つきの悪い男では無理がある。


 だったら、ええと、その、あの――


『雛ちゃーん、いるー?』

(……んだよ芽依さんかよ)


 がっくりと肩を落とす。

 蓋を開ければ何てことはない。訪問客はこの『コーポとまりぎ』の大家である木山芽依だった。


 芽依だったら雛のことはもちろん、優人が隣に住んでいることも知っている。

 看病という大義名分はあるわけだし、雛の部屋から優人が顔を出してもそこまで大事にはならないはずだ。


 ……まあ、まず間違いなくからかわれるだろうけど。


 げんなりしつつ、また名残惜しい気持ちを感じつつ、雛の手をできるだけ優しく離して玄関へ向かう。

 優人が扉を開けると芽依は目を丸くし、そして予想通りニヤァと面白そうに口の端を吊り上げた。


「おやおや優人くん、ひょっとしてお姉さん邪魔しちゃったかなー?」

「そんなんじゃないですよ。ちょっとすいません」


 ニヤニヤと楽しそうに下から見上げてくる芽依の横をすり抜ける。寝ている雛の妨げにならないよう、優人は外廊下に出てから玄関を静かに閉じた。


「ちょっと声は抑えめでお願いします。空森、風邪引いてるんで」

「えっ、ほんと? 雛ちゃん大丈夫なの?」

「とりあえずは。メシ食って薬を飲ませて今は寝てます。見た感じ今は落ち着いてるんで、この分なら大丈夫かと」

「そっか……なら良かった。それにしても雛ちゃんったら、何か困ったことがあったらすぐに連絡してって番号教えてあるのに」

「あまり迷惑かけたくなかったからみたいですよ。その辺りは俺が口酸っぱく言っときました」

「うむ、よろしい。優人くんも看病ご苦労様」


 芽依がどこまで把握しているかは分からないので、雛の家の人問題はひとまず伏せておく。

 うむうむと溜飲を下げるように頷いた芽依は顔を上げると、持っていたビニール袋を優人に差し出した。


「風邪引いたんならタイミング良かったかな。これどうぞ」

「りんごですか?」

「うん、長野の実家からたくさん送られてきたから、アパートのみんなにお裾分けしてたの」


 受け取ったビニール袋の中身はしっかり赤く熟したりんご。見れば優人の部屋を始め、他の数部屋のドアノブにも同様のビニール袋がメモと一緒にぶら下げられている。下がってないところはこうして直接手渡したのだろう。


「りんごは百薬の長! 良かったら雛ちゃんに食べさせてあげて」

「そうします。ありがとうございました」

「どういたしまして。それじゃ長居すると悪いから私はこれで。雛ちゃんにお大事にって言っといて。もし手が回らなかった私も看病しに来るから」

「了解です」


 明るい笑顔を見せて帰っていく芽依を見送り、優人はビニール袋を揺らしながら室内へと舞い戻る。


(空森は……まだ寝てるか)


 芽依の対応をしている間に寝返りでも打ったのか、雛の顔は壁側に向いていて表情が分からない。

 けれど引き続き規則正しい寝息が聞こえるので、まだ眠っているのだろう。

 起きているなら芽依が心配したことを伝えようと思ったが、来客があっても気付かず熟睡できるぐらいならそれに越したことはない。


 芽依から頂いたリンゴを一口サイズに切り分け、器に盛ってラップをかける。出来上がったものは冷蔵庫に入れておき、色々と伝えたいことをメモ用紙に書き留めて枕元に置かれたペットボトルの下に挟んでおく。


 ひとまず今日はこれぐらいだ。


「ゆっくり休めよ」


 布団にくるまった雛の背中にそう告げて、優人は音を立てないように彼女の部屋を後にした。









 一夜空けた日曜日の翌朝。雛のことを思うとどうにも寝付きが良くなかった優人は、重い瞼をこすりながら身体を起こす。

 洗顔や朝食など朝の生活を一通りこなし、一度雛の様子を見に行こうかと思った矢先のこと。


 優人の部屋のドアチャイムが鳴り、玄関を開けた先に待っていたのは雛だった。

 玄関の扉に寄りかかるほどだった昨日の弱々しい姿と違い、今はしっかり二本の足で自立している。


「……お、おはようございます、先輩」

「おう。起き上がって大丈夫なのか?」

「はい。まだちょっとだるさは残ってますけど、熱は下がりましたし、今日一日休めば明日には問題ないと思います」

「……本当だな?」

「ほ、本当ですよ。ここまできて今さら隠そうとは思いません」

「ならよし。一段落したみたいで良かったよ」

「ご迷惑おかけました。……それで、あの」

「ん?」


 ちらちらと視線をあちこちに向け、何やら言いたげな様子で優人を見上げる雛。

 てっきりこちらが訪れるのに先んじて快復した姿を見せに来ただけかと思ってが、他に用事でもあるのだろうか。


「どうした?」

「その、昨日私が寝ている間、しばらくは部屋にいてくれたみたいなんですけど……」

「……あー、まあ、昼飯の後片付けとかあったし。極力必要なもん以外には触れてないつもりだけど……なんかあったか?」


 恐る恐る雛に尋ねる。手を繋いでいたのは彼女が寝ている間だけの話なので気付かれてはいないと思いたいが、別の部分でやらかしでもあったのだろうか。


「いえ、そういうわけではなくてっ。ただ、その……私、なにか変な寝言とか言ってなかったかな、と……」


 変な、ではないが気になる寝言なら言っていた。ついでにそのせいで手を繋ぐことにもなった。

 だがそれを馬鹿正直に答えるわけにもいかず、ちいさくてやわらかな感触が甦ったように感じる手をポケットに隠しながら、優人は努めて平静に口を開く。


「言ってたぞー。もう食べられないとかな」

「う、嘘ですよねっ!? そんなお決まりなこと言うはずないですっ!」

「寝言なんだから深く考えるなって。ほら、今日一日は休むんだろ? 熱がぶり返す前にさっさと部屋に戻った戻った」

「う、うぅー……!」


 さあさあと手で急かす優人に苦悩の声を漏らす雛。

 色々と問いただしたい気持ちはあれど、風邪のことを持ち出されると強く出れないらしい。もちろん優人も狙ってそうしている。


 結局、渋々ながらも「部屋に戻ります」と言い残して大人しく帰る雛の背中を見送り、優人も玄関を閉じた。


 ああして詰め寄ろうとするぐらいには復調しているみたいだし、本人の言葉通り今日一日ゆっくり身体を休めていれば明日の登校には支障がなさそうだ。


 肩の荷を下ろすようにベッドに倒れ込むと、枕元でスマホが震える。手に取ったスマホの画面を眺めた優人は苦笑を浮かべた。

 昨日メモに残した連絡先をさっそく活用したらしい。


 無料トークアプリ経由で届いたそのメッセージ。差出人の欄には『空森雛』の三文字。


『色々とお世話になりました。ありがとうございます。先輩が風邪を引いたら今度は私が看病しに行くので、ちゃんと連絡してくださいね?』


 その文面のすぐ後、さらに電話番号やメールアドレスが続けざまに送られてくる。


「律儀な後輩だな」


 そう言って笑みをこぼし、優人は電話帳の新規登録を進めていくのだった。

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