第11話『頑張り屋さんと登校』
三連休が明けたその日の朝、耳元で鳴り響く目覚ましで優人は目覚めた。
自己主張の激しいアラーム音を止めてむくりと身体を起こし、カーテンを開けて室内に朝日を取り入れる。
空を漂う雲のせいで三連休の時よりはだいぶ日差しが弱い。だが寝起きがいい方である優人にとっては思考を覚醒させるには十分な強さであり、そう時間も経たない内に頭の中ははっきりとしてきた。
欠伸を噛み殺し洗面所へ。冷たい流水で残った眠気を残さず洗い流すと、パンと牛乳で簡単な朝食を済ませ、登校に向けての身支度を手早く整えていく。
実を言えば登校にするにはまだ時間も早く、少なく見積もっても三十分程度はゆっくりできるぐらいの余裕があったりする。だが今日の部活で少し時間をかけて作ろうと思うものがあるので、朝の内にその下準備を行うつもりだ。
「っし、行くか」
身支度は完了。忘れ物もないことを確認し、玄関で靴を履く。
さて、今となってはお隣に同じ学校に通う後輩がいるわけなのだが、特に一緒に登校するなどという約束は交わしていない。
学校までの道順は完璧に把握してるとのことだから案内は不要だし、この二、三日で以前より親しくなったとはいえ、所詮お互いの関係は隣人止まりだ。
今までノータッチだったのが、顔を合わせたら軽く挨拶を交わす程度になっただけのこと。機会が増えたからといって急に距離を詰めたら雛だって迷惑だろう。
第一いくら出発地と目的地が同じでも、家を出る時間が五分も違えば被ることもないはずだ。
(ただでさえ今日は早いしな)
雛は部活に入ってないらしいので朝練とも無縁。だから彼女が家を出るのはしばらく後の話だと考えながら、優人は玄関の扉を開いて外に出る。
「あ、おはようございます」
「…………はよ」
まさか、いきなり出鼻を挫かれるとは。
一歩外に踏み出した矢先、ちょうど玄関の鍵をかけたらしい雛とばったり
ブレザータイプの制服を優等生らしくきっちりと着こなした雛は、普段から学校で目にする眼鏡無しのスタイル。冬間近の淡い朝の光すらも味方につけた彼女はただそこにいるだけでも目の保養だ。
「お前、家を出るの早くないか?」
「今日は朝の清掃当番なんですよ。美化委員」
「ああ、そういう……」
「先輩はどうしてですか?」
「部活。今日の放課後はちょっと時間かけて作りたいから、朝の間に進めとこうと思ってな」
「なるほど。……では、一緒に行きますか?」
「え?」
思わず聞き返せば、鞄の中に鍵を収めた雛が当然のようにこちらに歩み寄ってくる。斜め下から優人を見上げる視線には何の戸惑いもない。
「いいのか?」
「いいも何も、同じタイミングで同じ場所に向かうのに別れる方が不自然じゃないですか」
「そりゃそうだけど……こんな目つきの悪い野郎が隣にいて大丈夫かって話だよ」
学校での雛の知名度は飛び抜けている。
そもそもの容姿と定期テストで何度も首位に君臨する学力が大きな要因であり、当然その知名度はイコールで異性からの人気にも繋がる。要はモテる。
聞きかじった程度の噂でも告白に踏み切った人数は二桁に上るらしいし、実際の行動に移してはいないが想いを寄せる男子ともなれば、もちろんそれ以上の数になるだろう。
そして雛は、その告白を例外なく全て断っている。
好みにうるさいのか、すでに心に決めた相手がいるのか、はたまた恋愛自体にそもそもの興味がないのか。
細かい理由はさておくにしても、そんな攻略難易度の高い彼女が朝っぱらから男子と一緒に登校したとなれば、勝手な憶測の一つや二つやぐらい簡単に飛び交いそうなものだ。
優人としてはそんなの知らぬ存ぜぬで通せばいいだけの認識だが、雛がそう割り切れるかは分からない。
「……そういうことですか。私はあまり気にしないようにしてますけど……先輩まで迷惑をかけるわけにはいきませんよね。私が適当に道を外して行きますから、先輩はそのまま行ってください」
ふと寂しそうに、わずかに疲れを
それが一番安全策と言えばそうなのだが……なんだか急に反骨心めいた感情が湧いてきた。
顔も名前も知らない不特定多数の人間相手に、どうして雛がそんな悩みを抱えなくてはならないのか。ただ状況に流されてしまうのが、どうにも癪に触る気がしたので、優人は振り返って雛の後を追う。
「……先輩?」
「俺、途中でコンビニ寄るから。そのタイミングで別れりゃ大丈夫だろ」
自宅と学校の中間地点ぐらいで別れる形だ。そこまでなら他の生徒に見られる可能性も低いから、まあセーフだろう。
呆けた様子で立ち止まった雛を追い越して前へ。少し歩を緩めて背後に視線を送れば、うっすらと眉尻を下げた雛が後に続く。
二つの足音が重なるのに、そう時間はかからなかった。
朝の通学路、一応優人が車道側に立ちながら雛と並んで歩く。ついさっきまで出ていた太陽もすっかり雲に覆われてしまい、一定の距離を置いた二人の間を流れるのは冷たく澄んだ朝の空気。
早々に制服のポケットに両手を突っ込んだ優人と違い、雛は手を出したまま、時折寒さを和らげるように息を吹きかけている。お互いブレザーの下にセーターやカーディガンを着用しているが、もう少し寒さが深くなればコートを追加することになりそうだ。
「十一月に入って、一気に寒くなってきた感じだよな」
このまま無言で歩き続けるというのも物寂しい。吐いた息が白くなるのを確かめながら、優人は適当に思い付いた話題を雛に振ってみる。「そうですねえ」と頷いた雛も優人の行動をなぞるように白い息を吐いた。
「今年の寒さは結構厳しいらしいですよ? 日が出てればまだいいんですけど、今みたいに雲に隠れてしまうとどうにも」
「だな。女子とかスカートで大変だと思うよ」
「私なんかはタイツを履いてますから、まだマシな方ですけどね。人によっては短いソックスだけだったりしますけど……正直、あれは真似できません」
ふるりと身震いを起こす雛。お洒落の一環で真冬でも生足を貫く女子がいるが、雛にとっては防寒の方に軍配が上がるらしかった。
まあもっとも、だからといって雛の格好が野暮ったいという話でもないのだが。むしろ黒タイツに包まれた両足は見事な脚線美を描いていると言ってもいい。
「空森は寒がりか?」
「ええ。冬が近付いてくると、段々とベッドから起き上がるのが辛くなってきますよ」
「想像できねえな。どっちかっていうと空森って、こう、『あと五分』とか言って起きない奴の布団を引っ剥がすようなタイプに見えるけど」
「なんですかそのイメージ。私、むしろ寝起きは悪い方なんですけど……」
そんな他愛もない話を続けていると、気付けば雛と別れる場所が目と鼻の先まで近付いていた。雛はそのまま真っ直ぐ、優人は角を曲がって少し先にあるコンビニに立ち寄る形だ。
「それじゃ、俺こっちだから」
「はい。――あ、ちょっと待ってください」
ここから先は、ぼちぼち他の生徒に遭遇する確率が高くなってくる。だから手早く見切りをつけてコンビニに向かおうとすると、そんな優人を雛が引き留めた。
何だ、と尋ねようとして振り返った矢先――ふわりと甘い香りが、鼻先を掠めて。
「ネクタイ、緩んでますよ」
優人の首元をひやりとした感触がくすぐった。
いつの間にか優人のすぐそばまで近寄っていた雛が、丁寧な手付きで制服のネクタイを整えていく。「さっきから気になってたんですよね」なんて呟きながら白く細い指は淀みなく動き、最後にきゅっと首回りを締め直してくれる。
「はい、これでばっちりです」
一仕事終えた雛が満足そうに微笑む。淡い笑みに彩られた顔立ちはあまりにも心臓に悪く、結構な近距離でその様を目の当たりにした優人の心拍を容赦なく早めていく。
そしてそれは、どうやら雛にも
金糸雀色の瞳がはっと我に返ったように見開かれる。
「ごめんなさい! 急に失礼しましたっ!」
「お、俺の方こそ手間かけて悪かった。けど、こういうのはあんまりやらない方が……」
「い、今のはたまたまですよっ! なんだか、こう、つい……せ、先輩がだらしないからいけないんですっ!」
顔を赤くしてまくし立てる雛は、最後に「もう行きますっ」と告げてしどろもどろなまま立ち去っていく。足早に遠ざかっていく彼女の背中を見送り、ついでに念のため周囲に誰もいなかったことを確認してから、優人はため息をついた。
(……心臓に悪い)
不意打ちにも程がある。純粋な善意からの行動故に距離感がバグったのかもしれないが、やられる方はたまったものではない。幸い身体の火照りを冷ますにはちょうど良い気温なので、深呼吸して冷たい空気を肺の奥まで取り込んでいく。
そしてコンビニに向かおうと歩き始めたわけだが、どうにも首回りに意識がいってしまう。
(ちょっと苦しい……)
そもそもネクタイは緩んでいたのではなく、緩めていたのだ。あまり堅苦しいのは好きじゃないし、先生方に見られても小言を貰わないレベルには留めているつもりだ。
どうせ学校では雛に会う機会なんてほとんど無いのだし、彼女には悪いけれど、今ここで戻してもバレることはないだろう。
『はい、これでばっちりです』
――首へと伸ばした手が、焼き付いた雛の笑顔で止められる。
「……ま、いいか」
せっかく綺麗に整えてくれたのだ。今日一日ぐらいは我慢しないと罰が当たりそうだ。
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