第10話『風習は大事です』

(まさか作ってくれるとはな……)


 雛が二人分のかき揚げを確保して戻ってきた時にはどうしたのかと思ったが、どうやら引っ越しそばをご馳走してくれるということらしい。

 こうしてスーパーから帰宅して時間が経ってもなお、いまいち現実味のない状況を前にし、優人はテーブルに頬杖をついてキッチンの方を眺めていた。


 設置されている二口ガスコンロの前に佇むのは、私服の上から新品のエプロンを身に纏った雛。

 火にかけた鍋をお玉で静かにかき混ぜつつ、途中で中身を小皿にすくって口に含むと、横顔から覗く口元が緩やかな弧を描いた。味見の結果は上々らしく、そんな基本に忠実な調理行程の一つ一つが実に似合っている。このまま料理番組に出演してもレギュラーを張れそうなほどだ。


 雛のような美少女が自宅にいるだけでも珍しいというのに、よもやキッチンに立って食事の用意までしてくれている。

 雛曰く引っ越しそばということだそうで、このご時世においてもはや風化した風習を行おうとする姿勢には驚きだ。『律儀だなあ』と心の中で呟きつつ、優人は胡座あぐらだった姿勢をなぜか正座に切り替えて、やっぱり胡座に戻した。変にかしこまってどうするのか。


 そうこうしている間にも調理は順調に進み、ほどなくして雛はお盆の上に二つの器を乗せて食卓へとやって来た。


「お待たせしました」


 まず優人の前に、それからもう一つを自分の前に。ほわほわと湯気を立ち上らせる器に盛られているのは、それぞれの具材が綺麗に盛り付けられたかき揚げそばだ。


 スーパーで買った野菜のかき揚げを具のメインに、すぐ横には添え物として茹でたほうれん草。色彩のバランスも良く、先ほどから漂う出汁の香りを相まってこれでもかと食欲をそそられる。


「……食べていいんだよな?」


 期待以上の完成度になんだか恐れ多くなって尋ねると、逆に雛からは首を傾げられてしまう。「今さら何を」とでも言いたげな、まさしくごもっともな正論を受けて箸を手に取る。「いただきます」と唱えてから器を持ち、最初につゆを一口。そしてそばをすする。


「――美味い」


 ほどよい歯応えを咀嚼して飲み込めば、嘘偽りのない感想が口を突いて出た。


 寒さも深まりつつある日々に沁み渡るような、穏やかさを感じさせる温かさと味。一人暮らしでは何かと頼りがちなカップ麺ではこうはいかない。改めて雛が培っているものに感心していると、あっちもあっちでかき揚げに目を輝かせていた。


「本当、このかき揚げ美味しいですね。先輩がオススメするだけはあります」

「いやそっちじゃなくて」

「?」


 同じようで微妙にズレている感想に苦笑がこぼれてしまう。つゆにひたしたかき揚げを咀嚼しながら疑問符を浮かべる雛に、優人は見せつけるようにそばを箸ですくう。


「こっちの方だよ。そば自体もそうだけど、つゆも美味い」

「大げさですよ。市販のを茹でただけですし、つゆだってそこまで手が込んでるわけじゃないですから」

「そうか? わざわざ出汁から取ってたし、十分過ぎるぐらいだと思うけど」


 雛の調理行程はだいたい見させてもらったが、つゆを作る際にはわざわざかつお節から出汁を取り、その上で各種調味料を足していた。そこでめんつゆに頼らない時点で優人からしてみれば感服だ。


「あとこれ、このほうれん草が地味に嬉しい。良い仕事してるよ」


 雛が足してくれた具材を箸で取り、口に含む。色合いが綺麗な緑色をしているあたり茹でる時間も適切だったのだろう。適度な苦みを含むほうれん草は合間の口直しにちょうど良く、かき揚げの添え物としてはベストなチョイスと言える。


「本当に大げさですね。達人の一品ってわけでもないのに」

「でも丁寧だったろ?」


 出し抜けにそう言葉を返すと、雛の目がぱちりと瞬いた。


 別に優人だって、雛の一品が老舗の店と並ぶレベルとまでは思っていない。調理の流れにだって特別なものがあるわけではなかったし、なんだったら普段とは勝手の違うであろうキッチンの作りにまごついていた部分もあった。


 それでも雛の手付きは、最初から最後までとても丁寧だった。基本をしっかりと守ったお手本のような進め方だった。


「俺の母さんが言ってたよ。『美味しいものを作るのに特別なことなんていらない。ただどれだけ丁寧にやれるかが大事』って。そういう意味じゃ、空森は大正解だったと思うぞ?」


 パティシエの現場と一般家庭のキッチンでは毛色も違うだろうけど、本質はきっと同じだ。目の前に置かれた一つ一つの行程に真摯に取り組み、それを積み重ねていくことが美味しいものに繋がる。


 昔から母はそれを体現したような人間だったし、先ほどの雛からも同じものを感じた。そして、それが間違いじゃなかったことは目の前のこの一杯が証明している。

 噛みしめるように箸を進めていると、ふと対面の雛が大人しいことに気付く。


「空森、食べないのか?」

「え、あ、はい……食べます」


 優人の言葉で我に返ったのか、慌てた様子で動き出す雛。ただその動きはどこかぎこちなく、ついでに言えば肩が縮こまっているし顔は下を向いているし髪の隙間から覗く耳も赤い。


 ……本心を言ったつもりなので後悔こそしないが、そういう反応されるとこっちも気恥ずかしいのだが。

 二人して、しばし無言でそばを啜る。そうしてそばの残りが少なくなってきたところで、ようやく雛が口を開く気配があった。


「……先輩は、結構素直に褒めますよね。美味しいとか、そういうの」

「それも母さんからの受け売りだよ。『美味しいものを食べた時、もし作った人に伝えられるんならちゃんと伝えた方がいい。それが何よりの報酬になるから』って」

「そうですか。……そうですね」


 俯かせていた顔を上げる雛。現れたその表情に――思わず目を奪われてしまった。


 嬉しそうに緩んだ瞳と、淡い薔薇色に色づいた頬。ほんのり上がった口角からは雛の照れ臭さが感じられて、逆に優人の方こそ頬がじわじわと熱を持ってくる。


「ありがとうございます、先輩」

「……ん」


 直視したのは失敗だった。でも、これはこれでレアなものを見れた気もするので成功だったとも言えるのか。

 ぐるぐると渦巻く胸中と脈打つ心臓を必死に押し殺し、逃げ場を求めた優人は結局そばの器に視線を落とす。食べるという名目がまだ残っていたことをこれほどありがたいと思ったことはない。


 だいたい何がありがとうなのか。それならこうして夕食をご馳走になっている優人の方が言う台詞だ。

 そういえばそばの感想はともかく、作ってくれたことへのお礼はまだ口にしていなかったことに思い至って、でもとりあえず食べ終わってからにしようと結論づけて、麺の一本も残さないようにそばを食べ尽くしにかかる。


 頬の熱が抜けきるには、もう少し時間がかかりそうだった。

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